いかにもバンカラな学生生活を送った厚木さん。大学卒業後は当然、サラリーマンになる予定だったが、ここから彼の人生は一変する。
「外資系企業から内定をもらい、4年生の正月前には卒論を提出していたので『これで親孝行はできたな』と思ったわけですよ。ところが、冬休み明けに当時の指導教授から『君の卒論、結構面白いね』と言われたんです。『今までは面白い勉強に出会ったことがなかったけど、せっかく自分の論文を褒めてくれる人に出会えたのだから、あと2年間だけでも勉強しよう』と思って、別の私立大学の大学院に進学することにしたんです」
こうして、大学院生として新たな生活を始めた厚木さん。寮を出て一人暮らしを始めるが、親からの支援はなくなった。結果、5年学生生活を延長することとなり、厚木さんは追加で400万円の奨学金を借りる決断をする。
「大学院の学費は年間40万円程度でしたが、バイトと奨学金しかないので、生活面では大変苦労しました。当時住んでいたのは、80年代で築50年以上の風呂なしの6畳1間。それなのに、寮費より家賃は高くて2万3000円……。どれだけバイトしても学費が貯まらないので、一度だけ学長に『生活が困難でもう勉強を続けられません』と泣きつき、半額を免除してもらったこともありました。いくら学長とはいえ、今ではそんな独断できないですよね」
周囲の支援もあり、大学院も修了。しかし、今の時代の博士号持ちと同じく、就活では苦戦したらしい。
「一度採用してもらえた奨励研究員は次年度採用されず、普通のサラリーマンを4年した後、単行本執筆のため退職、半年間ハローワークに通って『博士号持ちで採用』してくれる企業を探したんです。でも、ご存じだと思いますが、博士課程まで進んだ人間を採用したがる会社は少ないですよね。もういよいよ生活ができなくなったので、日本育英会(現・日本学生支援機構)に返済猶予の申請をしたぐらいです」
奨学金の返済開始と教員生活
こうして返済がスタート。30代後半に、関西の有名私立大学に助教授として招かれて、研究者としても給料をもらえるようになった。その後、関東の中堅私立大学に転職し、昨年度で定年退職。今年の4月からは『特任教授』として週に5~6コマを受け持っているという。
昨今のポスドクに関する報道を見ていると、四半世紀にわたって教授職につき、多くの教え子を育ててきたという意味では成功したキャリアを送ったかのようにも思えるが、金銭的な意味では、余裕のあった時期はなかったようだ。
「関西の私立大学は規模も大きかったので、給料は悪くなかったのですが、その頃は結婚したばかりで子どももいたので、結局生活は厳しかったですね。妻に頼んでパートに出てもらっていました。
約520万円の奨学金は、年2回のボーナス月の返済で、約20年かけて返しました。返済が終わったのは47歳の頃。教え子を指導しながら『私が奨学金を返していることを、学生は知らないんだよな』と思ったりしていましたね」
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