その後、同じ大学の通信学部に移るも、どうしても周りと歩調を合わせられないもどかしさから、メンタル的にも追い詰められていき、受診した心療内科でうつ病だと診断され、その通信学部も辞めることになった。
「かなり強い薬を処方されて、しばらく寝たきり状態のようになってしまいました。そんな状態の私を見て、親からは『お前は働かないし、大学も中退、通信も辞めてしまうわで本当にダメな人間だ』と言われました」
「本当にダメな人間だ」と言われて…
こうして高校で1度、大学で2度、幼稚園を含めると合計4度の中退を経験した村田さん。
ふたたび先が見えない状況となったが、彼の支えとなったのが、高校時代から交際を続けてきた恋人だった。例の、村田さんを図書館代わりに使っていた女性である。
「なかなか就職できないでいる私を彼女はずっと待っていてくれていたのですが、待ちくたびれて大学院まで出て、30歳になる頃には社会福祉士に。そして、沖縄の私立大学に、社会福祉士養成の講座の教員として採用されたんです。
その頃には、私もうつ病の症状が落ち着いて、パートで専門学校の事務の仕事をしていました。彼女が沖縄へ行くと遠距離になってしまうので、一度彼女の両親にご挨拶へ行ったのですが、『君のことを認めたわけじゃない……けれども、一人娘が一人で遠方で就職するのは親として心許ない。だから、ボディーガードとして一緒に行くというなら、結婚を認めましょう』と言われて。
……今思うと、私との関係と自分の仕事を両立させるには、『遠方で就職するしかない』と妻は考えていたのかもしれませんね」
そうして村田さんは結婚。沖縄へ移り住み、働く妻を支える“主夫”としての生活をスタートさせた。沖縄では約4年間過ごし、子どもにも恵まれるのだが、その過程で仕事にも恵まれるようになっていく。
「沖縄は英語に距離が近い土地柄。子育てをしている時、インターナショナルスクールのことを調べていたのですが、『インターナショナルスクールって、日本語の情報があまり出ていないな』と気づき、そうした情報を発信するブログを始めたんです」
そして、これが現在も続ける仕事へとつながっていく。自身をあれだけ悩ませた、教育に関わる仕事だ。
「最初は、アクセス数ゼロという状態が1年間ぐらい続いたんですが、次第にアクセス数が伸びていきました。主夫兼ブロガーとして過ごしているうちに、人と会う機会も増え、教育現場を取材して書くライターになったんです」
「ライターの仕事もしつつ、その後はインターナショナルプリスクールの経営をしてみたり、幼・小・中のインターナショナルスクールの共同経営者になってみたり……。今も会社を経営しつつ、”国際教育評論家”として活動しています」
無料会員登録はこちら
ログインはこちら