アダム・スミス:なるほど、日本にもそのような先人がいたのですね。その人物とも道徳と経済について一度語り合ってみたいものです。
道徳と経済は一致するという話には、先ほども少し留保をつけましたよね。あくまで一致しうるという話で、いつどこでも必ず両者が一致するということではないのです。実際、私の観察では、上流の職業においては事情が異なることが多いのです。
そうした場合、たとえば会社であれば、成功と昇進も無知で高慢で自惚れた上位の者の気まぐれで愚かな行為に委ねられてしまうことでしょう。不幸なことにその時は、徳への道と財産への道は、まったく反対の方向に進んでしまいます。
なぜならば、富や地位に対する尊敬が徳に対する尊敬、あるいは悪徳に対する軽蔑を凌駕してしまう、つまり道徳感情が腐敗してしまうと、人は徳よりも他者からの尊敬や驚嘆を求める多くの手段を持つことになってしまいます。上流の職業においては、こうした人々がいることから徳と財産の道が一致しない場合がいくらでもありうるのですね。
“見えざる手”が働く瞬間
質問者:それって大企業のエラい人が、その地位を利用して悪いことをしようとするっていう話ですか?
アダム・スミス:そんなに単純な話でもありませんが、悪いことをしようとしなくても、会社という単位の〝人の集合〞も、大きなものになればなるほど、その会社を守る責任がある人は、組織の利益というものを考えるようになりますからね。
素朴に消費者に向き合うだけではいられなくなります。そして、それゆえに、私が大事にしたいと考える、“見えざる手”が働く市場の機能から少しずつズレた判断をしていくことになりそうなことも想像できるでしょう?
質問者:消費者サイドにおいてもエシカル消費など社会、地域、環境に配慮した消費行動の動きもあり、特に今のZ世代と呼ばれる若者の間では、そのようなエシカルな商品を買ってSNSで発信することも、ちょっとした流行になっているように見えます。こちらは、良いことなのでしょうか?
アダム・スミス:エシカル、ですか……。どうやら私の生きた時代のethics =倫理と現代のエシカルとでは意味が少し変化しているようですね。たとえそのエシカル消費が他者に配慮した消費行動だったとして、それが本当の意味で道徳的であるかが、私には少し疑わしく思えます。
人間の本性には富裕な人や地位のある人に驚嘆する傾向があり、大多数の人は富や地位の無邪気な感嘆者や崇拝者にいつの間にかなってしまいやすいのです。このことがおそらくそうした事態をもたらしているのでしょう。
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