儲かりたいなら「誠実になるしかない」必然的理由 アダム・スミス「資本主義のタテマエとホンネ」

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さて以上のように、分業によって、見えざる手によって生まれる豊かさの意味を、その社会の構成員となる人々が十分自覚してくれたなら、実は、逆にあらためて道徳、倫理などの言葉を経済の問題に持ち出す必要もないはずなのです。

こうして実現された豊かさこそ、社会の秩序の維持、つまりは、人々が安心して日々暮らせる、道徳的なあり方を約束するものではないでしょうか? 道徳の遂行のためには、ことさらの道徳の意識は必要ない。面白いでしょう?

しかし、今回こんな質問をいただいたということは……、やはり、もうある段階に達してしまったということでしょうかね。

私は経済成長が無限に続くとは考えてはいませんでした。どの国も成長の可能性を使い尽くす時がくることでしょう。その時には賃金も利潤も一般的に低くなることでしょうね。しかし、経済が成長を始める前の状態と比べるならば社会の平均的な暮らし、特に最下層の人々の暮らしははるかに良くなっていることでしょう。

今夜、お話を聞いていて、どうやらみなさんの社会はその状況に達し、一定の豊さを獲得したうえで、次の段階の問題に直面しているのだろうな、と直感したわけです。

そしてここから後は想像ですが、一定の物質的な豊かさを達成した現代では、少々の失礼を省みず申し上げれば、今まで私がお話ししたような〝見えざる手〞による〝労働の分割〞を活力とするような社会のあり方に否定的な方が少なからず、いらっしゃるのではないでしょうか?

社会が豊かになり、その環境で人は学びを深めると、どうしても競争的な社会のあり方に疑問を持つようになりますからね……。いや失礼、私の思い込みかもしれませんが。

資本制の論理の中に、道徳という倫理を持ち込もうとすること。これは、本当に正しく健全な社会のために、良いことか? 悪いことか? 難しいですね……。

エシカルは本当に倫理的? その背後にある想いは?

質問者:私たちビジネスパーソンの間でも、今の時代はSDGsやESG投資といった言葉を聞かない日はありませんが、まずは、その言葉の生まれた背景を注意深く吟味したほうがよさそうですね。新しく日本の一万円札の顔になる渋沢栄一という人も『論語と算盤』という本の中で、経済と道徳の関係について論じていたのですが。

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