確かに、文明社会には〝未開〞社会にはない富の不平等が存在しがちでしょう。しかし、文明社会では、この労働の分割によって、おのずから生まれる多方向への自由な生産活動の結果、自然な競争が促されて、労働生産性も高まることとなり、すべての生産物はすべての社会構成員を養うことが可能となるのです。そしてさらに最下層の人々ですら〝未開〞社会の人々よりも多くの生産物を消費できるというわけです。
多くの利益を生むことができるこの分業という所業は、もともとそれによって生まれる社会全体の富の増加を意図した人間の知恵によって生まれたものではありません。ここが大事なところですね。分業はこうした広い範囲にわたる有用性などとはまったく関係なく、人間の本性上のある性向、つまりあるものを他のものと取引し、交換しようとする性向の必然的な帰結なのです。
「野心」を社会的な意義に変える「見えざる手」の配剤
アダム・スミス:あるいは、こう言い換えてもよいでしょう。文明が進歩し、人類が物質的に豊かになるのは富に対する人間の野心があるからです。
孤立して生活している場合には持たなかった野心を、社会の中で持つことによって、人間は、勤勉に働き、技能を磨き、収入を節約するようになります。
その結果、土地が開墾され、海洋が開発され、都市が建設されるのです。自然への働きかけによって、より多くの生活必需品が生産され、より大きな人口を養うことができるようになるのです。
このようにして文明社会が形成されます。しかし個人は、文明社会の発展に貢献したいという公共心に基づいて活動するわけではなく、自分のために富と地位を求めるにすぎない、自愛心によって行動するにすぎないのですが、知らず知らずのうちに、社会の繁栄を推し進めるのです。
そしてここに、みなさんもよくご存じの、『国富論』の中で一度だけ使った、あの〝見えざる手〟という表現で説明したくなるようなメカニズムが生まれるというわけですね。
端的にまとめましょう。人々の目的は自分の利益であり、公益ではありません。しかし、私益の自由な追求は意図しない結果として公益を促進するのです。
私たちが食事ができるのは、酒屋やパン屋の慈悲心に期待するからではなく、彼ら自身の利益に対する彼らの関心に期待するからです。私たちが呼びかけるのは、彼らの人間愛に対してではなく、自愛心に対してであり、私たちが彼らに語りかけるのは、私たち自身の必要についてではなく、彼らの利益についてなのです。
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