日本人が知るべき戦争「飢餓との戦い」悲惨な実態 太平洋戦争末期の前線では米軍の攻撃より切実に

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かくして、昭和19年もあわただしく暮れ、昭和20(1945)年の正月が明けると比(フィリピン)島戦線の様相は一変していた。つまり、昨秋あたりのレイテ橋頭堡作戦(つまりレイテ海戦)から戦争の焦点はルソン島の激しい陸戦にうつっていた。

翼をもたない山下兵団15万の陸海軍は孤立無援の状態となり、ただ夜を日についで小銃弾でも撃ち出すように、「特攻機出撃」をかけるくらいがせめてもの米軍に対する報復となっていた。それも初めのように効果なく、ほとんど中途で撃墜されて、あたら若桜は春も待たずに初陣即戦死となって散っていった。

こうして、比島はマッカーサー軍の怒濤のような海陸空からの砲爆下にさらされていた。

青い大トカゲも夜盗虫も貴重なたんぱく源

トラックの食糧事情がいよいよ窮迫し出したのはこのころからである。米はもちろんとうになくなって、もっぱら現地でつくるサツマ芋やカボチャが主食になっていたが、それもやっと将兵の命をつなぐ程度、ましてや南方特有の植物パンの実、ヤシは食いつくし、空腹をかかえた兵隊たちは島のジャングル内に青トカゲやカタツムリなどを手あたりしだいにあさり出した。

不気味だった青い大トカゲもこうなれば兵隊たちにとって貴重な動物性タンパクの補給源である。また、パパイヤの実がなくなると、こんどはその木の白いやわらかなところをとって食べた。みずみずしい何の味もない白いもので、彼らは一時の空腹をみたした。

芋飯の中には芋ガラのはいる率が増すごとに、兵隊たちの生気は減退した。この命の綱である芋畑に夜盗虫が発生し、大被害をあたえたのもそのころのことである。一晩のうちに、青々とした芋の葉を全部食い荒らしてしまう。二晩目にはもう芋の茎だけになっていた。毎日、襲ってくるアメリカの定期便よりはるかにいまの兵隊たちには切実な大事件であった。

しかし、この虫の駆除法というのは、みつけて手でつぶす以外に手はなかった。帽子とかバナナの葉を下にあてて払いおとしてつぶす。10メートルもいくとチリ取りがいっぱいになってしまう。兵隊たちにはもう戦局の推移より、この虫こそ死活問題だったが、その気味の悪い夜盗虫もフライパンでいって食べれば貴重なたんぱく源であった。

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