板東武者の鑑「畠山重忠」が滅んだ"ささいな発端" 源頼朝の重臣として数々の武功を上げた男の生涯
重忠が下した決断は、頼朝に味方することであった。頼朝の勢力が増すなかで、平家との関係を絶った重忠の決断は、後の歴史を見れば、正しいものといえよう。しかし、不利と悟れば、主従関係を変えることは、平安末・鎌倉時代のみならず、中世全般に見られることであり、重忠もそれを実践したにすぎなかった。とはいえ、こうした経緯があったので、頼朝は重忠を心の底から信用したわけではなかった。
養和元(1181)年には、頼朝の寝所を警護する御家人11人(この中には、北条義時もいた)が選ばれているが、重忠はそこには入っていない(重忠の従兄弟は入っているにもかかわらず)。
ただ、頼朝は重忠を遠ざけていたばかりではなく、鶴岡八幡宮での神楽には重忠を同行させ、今様を歌わせたりした。元暦元(1184)年には、源義経軍に加わり、敵対する源(木曽)義仲の討伐戦(宇治川の戦い)に参戦している。
代官が不正を働き、囚人となった重忠
文治3(1187)年、順風満帆の重忠に危機が訪れる。重忠が地頭を務めていた伊勢国治田御厨。その代官の内別当真正が、員部郡大領家家綱の所従の屋敷を追捕し、資財を没収するという事件を起こし、訴えられたのである。この事件の裁決は、とても厳しいものであり、重忠は頼朝の命令によって、囚人として、千葉新介胤正に預けられることになった。
重忠は「代官の行為については、知らなかった」と弁明するが、受け入れてもらえなかったばかりか、所領を4カ所も没収される。 重忠は一週間ほど寝食を断っていたという。また、一言も発しなかったといわれる。
無実を証明するために、このような行為に及んだのだろうが、頼朝への抗議の意思もあったかもしれない。重忠を預かる千葉胤正は、その様子を見て、「早く許してやってください」と頼朝に願い出た。頼朝はその話を聞き、心を揺さぶられたのか、重忠を許すことにする。
重忠は釈放されてから、周りの同僚に「新たな所領をいただくときは、力量ある代官を求めるべきだ。そのような者がいなければ、その地を頂戴すべきではない。私は清廉なことについては、他人を超えると思っていたが、代官の真正の不義により、恥辱を受けた」と語ると、すぐに武蔵国に帰ってしまう。
しかし、この行動が「重忠謀反」の疑いを招く。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら