板東武者の鑑「畠山重忠」が滅んだ"ささいな発端" 源頼朝の重臣として数々の武功を上げた男の生涯
悪いことに讒言(ざんげん、告げ口)の常習として知られる梶原景時が頼朝に「重忠は、重科を犯したわけでもないのに、拘束されたことは、これまでの大功を捨てられたようなもの、そう言って武蔵国に引きこもりました。謀反の風聞もあります」と言ったものだから、事態は緊迫。頼朝は、使者を遣わして事情を問うか、すぐに討手を派遣するべきか、有力御家人らに対策を練ることを命じる。
御家人たちは「重忠は道理を弁えた男。謀反は間違いでしょう。使者を遣わし、重忠の心を確かめるべきです」との結論に達し、重忠の友・下河辺行平が使者に選ばれた。
自害しようとした重忠
重忠は、行平から事情を聞き、謀反の疑いをかけられていることに激怒。頼朝が行平を派遣したのも自分を殺すためだとして、自害しようとする。
しかし、行平は重忠の手をとり、「貴殿は『嘘は言わない』と自ら言っている。私もまた誠の心を持つ者。貴殿を殺すつもりならば、謀(はかりごと)など用いぬ。貴殿は平良文の子孫。私も藤原秀郷以来、四代の将軍の子孫だ。殺すつもりならば、それを明らかにして、貴殿と戦うのが面白い」と言い、重忠の自殺を思いとどまらせた。
鎌倉に参上した重忠は、自身の思うところを述べて、頼朝と和解したという。こうして重忠は、人生における危機の1つを乗り切ったのである。
危機を乗り切った重忠は、有力御家人としてさらなる活躍をしていく。奥州藤原氏攻め(1189年)で活躍したこともその1つだろう。頼朝の上洛時には、先陣を務めていることからも、頼朝の重忠への信任がわかる。
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