こちらは、すぎやまこういちや筒美京平などの職業作家が作るグループサウンズ(GS)のメロディなどが仮想敵だったのだろう。ド・レ・ミ・ソ・ラに加えてファやシも入ったエレガントなマイナー(短調)スケールによる、ヨーロッパ的で陰鬱なメロディに対して、地に足の付いた普段着のメロディで抗(あらが)った吉田拓郎。
その後の作品において吉田拓郎は、ペンタトニック(や跳躍、リフレイン)が持ち味の「拓郎節」を完成させる。影響は、愛弟子的存在の浜田省吾から、出身高校の後輩である奥田民生、意外なところでは小室哲哉(『WOW WAR TONIGHT~時には起こせよムーヴメント』は典型的な拓郎節)を経て、『LOVE LOVE あいしてる』特番でも共演したあいみょんに至る、数々のフォロワーを生むことになる。
以上まとめると、自分らしい強烈な個性に溢れたコトバとメロディ、そんな吉田拓郎の「本質的な自作自演」が、「こんなんでいいんだ!」「こんなのもありなんだ!」と、音楽を志す若者の裾野を広げ、後の「Jポップ」の礎を築いたと考えるのだ。
ビジネスとして成功させた吉田拓郎
吉田拓郎の功績をもう1つだけ挙げれば、その「本質的な自作自演」をビジネスベースに乗せたことである。職業作家が量産する歌謡曲や演歌、GSの世界に、普段着と裸足で分け入って、大きな商業的成功を収めたこと。「フォーク/ニューミュージックは金になる」と思わせたこと。
特に、今からちょうど半世紀前の1972年は「吉田拓郎の年」だった。1月発売のシングル『結婚しようよ』はオリコン3位で42万枚(出典:オリコン。以下同)、7月発売の『旅の宿』は1位を獲得、何と70万枚売れている。また7月発売のアルバム『元気です。』も47万枚(LP)を売り上げ、もちろん1位に輝いた。
さらには1974年、作曲家として提供した森進一『襟裳岬』が日本レコード大賞を獲得、その後も歌謡界との積極的なコラボレーションを続ける。加えて、日本初の大規模オールナイト野外コンサートと言われる「吉田拓郎・かぐや姫 コンサート イン つま恋」(1975年)や、後に自身が社長を務めるフォーライフ・レコードの創立(1975年)など、日本の音楽ビジネスに果たした貢献は計り知れない。
重要なのは、この時点でのフォーク/ニューミュージック市場において、商業主義が敵視する風潮がまだまだ残っていたということだ。そんな中で吉田拓郎は、レコードをがんがん売って、でっかいコンサートをやって、あげくの果てにレコード会社まで作った。
もちろん、吉田拓郎によるそのような商業的成功が、Jポップ市場という大河への、最初の一滴となったことは言うまでもない。
吉田拓郎を継ぐ形で、日本のロック/Jポップをビジネスとして確立させた桑田佳祐は自身のラジオ番組で「吉田拓郎を聴いて、音楽で金を稼ぐって、すげぇいいなと思ったんです」と話した。このエピソードは、吉田拓郎が、日本の音楽ビジネスに果たした役割を、極めて端的に示している。
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