作曲家・筒美京平が10月7日、誤えん性肺炎で死去した。80歳だった。
音楽評論家として、氏の巨大な功績を追い続けてきた私だが、そんな私の予想を超えた大きさで、筒美京平の死は、取り扱われた。しかし、一定の年齢以下の層や、意識的な音楽ファン以外の層にとって、筒美京平の功績は、非常にわかりにくいのではないだろうか。当の筒美京平自身が、徹底的に裏方に徹し、メディア露出や積極的な発言を好まなかったから、なおさらである。
そこで今回は「月間エンタメ大賞」の特別編として、筒美京平の功績、その大きさと重さを、私なりに捉えてみたいと思う。
小室哲哉をしのぐシングル売り上げ枚数
筒美京平の功績を一言で言えば「ヒットシングルを量産し続けたこと」に尽きる。
生涯で3000曲弱の作曲を手がけ、売りも売ったり、作曲家としての売り上げ枚数は7560万枚に上るという(オリコン調べ)。筒美京平に続くのは、作曲家・小室哲哉で7184万枚。筒美京平と僅差なのだが、筒美京平と小室哲哉では活躍した時代が異なる。小室哲哉が最盛期を迎えた90年代は、いわゆる「CDバブル」で、音楽ソフト市場が爆発した年だった。
日本レコード協会によれば、音楽ソフトの生産金額がピークを迎えたのは1998年で6075億円。その前年1997年に、作曲家・小室哲哉の最高売り上げとなった安室奈美恵『CAN YOU CELEBRATE?』が230万枚を売り切っている。逆に、作曲家・筒美京平としての最高売り上げ枚数(124万枚)となったジュディ・オング『魅せられて』がリリースされた1979年は、1998年の半分以下、2626億円にとどまる市場規模だった。
つまり小室哲哉の時代に比べて、まだまだ市場が小さかった時代において、小室を超えるヒットシングルを、ロングテールに積み重ねたということが、筒美京平のすごみなのである。
では筒美京平は、どのような方法論でヒットシングルを生み出し続けたのか。
方法論の本質は、その時代その時代における最新の音楽潮流を、筒美京平一流の鋭いアンテナでキャッチし続け、日本の「お茶の間」になじむように加工することだった。
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