ロック時代に合わせた強いエイトビートをバックに、まるで小唄のような和風の歌い方を乗せて大ヒットした、いしだあゆみ『ブルー・ライト・ヨコハマ』(1968年)。フォーク/ニューミュージック的なサウンドと、これまでの歌謡界には見られなかった型破りな歌詞が見事にマリアージュした、太田裕美『木綿のハンカチーフ』(1975年)。
当時、世界的に大流行し始めていたディスコサウンドを、抜群の歌唱力を持つ女性新人歌手の歌に導入して大ヒットとなった、岩崎宏美『ロマンス』(1975年)。エキゾティック・ブームを先取りした大胆なメロディーとアレンジで、作曲家・筒美京平の最高売り上げとなったジュディ・オング『魅せられて』(1979年)。
と、どの曲も、当時最新の音楽動向を捉えつつ、それを見事に「お茶の間化」することで、大ヒットとなったのだ。筒美京平の才能の根幹は、この「お茶の間化力」だったと、つくづく思う。
作詞家との柔軟なコラボで市場変化に立ち向かった
さらには、その時々の有能な作詞家と刺激的にコラボレーションすることでエネルギーを得ながら、音楽市場の変化と戦い続けたことも、ヒットシングル量産の大きな要因と思う。
先のいしだあゆみ『ブルー・ライト・ヨコハマ』を作詞したのは橋本淳。筒美京平を作曲の世界に導いたキーパーソンであり、筒美とコラボした楽曲数は500曲を超えるという。橋本×筒美が生んだ、高度経済成長期に合うバタ臭い音楽性は、初期・筒美京平のブレイクに大きく寄与した。
筒美京平の「第1期黄金時代」とも言える1971年に日本レコード大賞を獲得した尾崎紀世彦『また逢う日まで』や、岩崎宏美『ロマンス』でコラボした作詞家は阿久悠。高度経済成長から、オイルショック、低成長時代へと移っていく中で、厳しい時代を生き抜く、自立した女性のイメージが残る作品群が印象的である。
70年代後半からの、主にフォーク/ニューミュージックの市場を攻略する局面でのパートナーが、伝説のロックバンド=はっぴいえんど出身の作詞家、松本隆だった。都会的で個性的な筆致を武器に、太田裕美『木綿のハンカチーフ』から、桑名正博『哀愁トゥナイト』(1977年)を経て、近藤真彦『スニーカーぶる~す』(1980年)前後の「第2期黄金時代」を、筒美と共創することとなる。
80年代になって、筒美京平のそばに現れるのが秋元康。コラボした曲は案外多く約100曲にのぼるという。稲垣潤一『ドラマティック・レイン』(1982年)がコラボの端緒となり、80年代特有の軽薄短小な気分に合わせて、アイドルがアイドルを対象化する小泉今日子『なんてったってアイドル』(1985年)も、このコンビの作品だった。
以上に見られるように、その時代その時代で、最も勢いのある作詞家と果敢にタッグを組み続けた、逆に言えば、旬の作詞家とコラボし続けられる柔軟性を持っていたことも、筒美京平がヒットシングルを量産し続けられた大きな要因だと考えるのだ。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら