源頼朝が重用「梶原景時」力握ったのに没落した訳 頼朝の死からわずか1年で鎌倉から追放

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朝光の言葉は、景時の耳にも入る。朝光の言葉を「けしからん」と感じた景時は、そのことを頼家に伝える。そして、頼家激怒という流れになったと思われる。よって、景時は、5人の頼家側近以外の者だが、頼家に面会し、言葉を伝える立場にあったと言える。

頼家は、梶原と比企を両脇に置き、側近グループを中心に政治を行おうとした。裏を返せば、景時と能員もそれを望んでいた。

ところが、朝光が友人の三浦義村に、殺されそうになっていると相談したことにより、和田義盛や畠山重忠ら、景時に反対する御家人66人が集結。団結して、頼家に景時弾劾状を提出することになるのだ。

弾劾状には比企能員の名前もあった

ちなみに、この66人の中に、比企能員の名も見える。能員は、景時が多くの御家人から遺恨を買っていたことを知っていたろうし、頼家にまとわり付く邪魔な奴くらいに思っていた可能性が高い。頼家のお気に入り(景時)を、これを好機として追い落とす。

そうなれば、比企一族の栄華がやって来ると考えていたのではないか。景時弾劾状の作成メンバーの中には、北条時政と義時の名はない。これは不思議と言えば不思議だが、北条氏がこの件(景時の追い落とし)にまったく無関係と考える歴史家は少ない。

景時が本当に結城朝光を讒言したのかは定かでないとの声もあるが、『吾妻鏡』の記事を真正面から読むと、今回の事件の発端となったのは、阿波局、北条時政の娘である。

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