源頼朝が重用「梶原景時」力握ったのに没落した訳 頼朝の死からわずか1年で鎌倉から追放

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「小笠原長経、比企三郎、比企時員、中野五郎たち頼家様の側近が、鎌倉中で狼藉したとしても、庶民は歯向かってはいけない。もし、これに違反していると耳に入った者は、罪人として名前を調べて書き出せと、村里にお触れを出すように。先ほどの5人以外のものは、特別な仰せがなければ、簡単に頼家様に会ってはならない」

これは先ほどの「若い頼家を13人の宿老たちが支える体制」に反旗を翻すような内容だ。頼家は、宿老ではなく、自分の側近と政治をしたかったのであろう。

梶原景時と比企能員の動きに北条氏は危機感

注目すべきは、その側近の中に、比企能員の子が2人も入っていること。そして、景時が前掲の張り紙を貼付することに加担していることである。比企能員は、自らの娘(若狭局)が頼家の愛妾となっていた(若狭局は、頼家の子・一幡を産んでいる)。さらには、頼家の乳母は比企一族の女性も務めていた。一方、景時の妻も頼家の乳母を務めている。

梶原景時と比企能員は、そのような頼家との関係から、13人の宿老の中に入りながら、また別の側面から、頼家とタッグを組んでいたのではないか。ほかの11人の宿老からすれば、その行動は苦々しいものに見えたに違いない。この状態をそのまま放置しておけば、頼家の乳母を出した家(比企家と梶原家)が権力を強化していくことになる――。北条時政や義時も危機感を抱いていただろう。

同年10月25日、頼朝の側近く仕えていた武将・結城朝光が「忠臣は、2人の主君には仕えないものだそうだ。私は、とくに頼朝様にはご恩を受けている。お亡くなりになったときに、出家しなかったことを、とても後悔している。近頃の政局は薄氷を踏むようなものだ」との言葉をほかの人々に漏らす(『吾妻鏡』)。

するとすぐに、その言葉は頼家の耳に入ってしまう。早くも、10月27日には、阿波局(北条時政の娘。政子の妹)が、朝光に「景時の讒言により、あなたは殺されてしまいますよ。忠臣は二君に仕えずという言葉を聞いた頼家様が立腹され、あなたを死罪にしようとしている」と伝えるような状況に陥るのだ。

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