中村哲さん「アフガン復興」21年取材で見た想い 現地の人とともに生きてきた、その人物像とは

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――素顔の中村さんはどんな人でしたか?

ダ・ヴィンチ的な天才じゃないかと思います。パシュトゥー語、ダリ語、ウルドゥ語をマスターし、流水力学や土木工学を独学して自分で用水路を設計しました。私は中村医師の隣の部屋に泊まることが多かったのですが、午前3時、4時まで勉強されていたようです。

古典もよく読まれていました。「コーヒーでも飲まんね」と部屋に招かれた最後の取材のときには、机の上に司馬遷『史記』がありました。それでいて『クレヨンしんちゃん』も大好きなんです。

オフのときは、とぼけたお父つぁんみたいな人でした。食事は現地のアフガニスタン人の職員用に作られたものを食べていました。おいしいんですよ。トマトでジャガイモと羊の肉を煮たスープ、ナンの組み合わせが多くて、肉が入っているのは週2回くらい。日本のインスタントラーメンを食するときは「きょうは御馳走ですな」とにっこり笑っていました。

今の時代への回答の1つともなる

――中村さんは2019年12月、宿舎から作業現場に向かう途中で銃撃され、73歳で亡くなりました。谷津さんは撮影された1000時間もの映像から映画を制作されました。

中村さんの教えを受けたアフガニスタン人の技術者が自分たちで新たな水路を完成させたことをお知らせしたかったのと、用水路によってよみがえった緑野を大きなスクリーンで見ていただきたいという気持ちがありました。

まるで創世記みたいじゃないですか。何もないところに水が流れだす。まず魚が川から入ってくる。それを狙って鳥が来る。鳥の糞に入っていた種から草が生える。干ばつで沙漠化していたところに自然が再生されていく。

現在もアフガニスタン人スタッフが医療と用水路の事業を引き継ぎ、国際NGO「ペシャワール会」が支援を続けている。 ©Nihon Denpa News Co.,Ltd.

最後の取材になった2019年5月に中村医師と丘に上って緑野を見渡したとき、子どもの歓声、仕事の掛け声、小鳥のさえずりなど、音がワーッと迫ってきて命の気配がした。これが中村医師の目指していたものだと強く感じました。だから映画館の良質な音響機器で音も聞いていただきたいんです。

とにかく記録を続けた結果、この映画ができた。中村医師が命を懸けて向き合ったこと、考えたことは、戦争やコロナにさいなまれている今の時代への1つの回答になっている気がしています。

【監督プロフィール】谷津賢二(やつ・けんじ)

1961年、栃木県足利市生まれ。立教大学社会学部卒業後、テレビ朝日グループの(株)FLEX(テレビ制作会社)に入社。テレビ朝日のニュースカメラマンとなる。94年 日本電波ニュース社に転職。94年ルワンダ臨時支局長、95~97年ハノイ支局長。プロデュース・撮影作品に「沈黙を破って イスラエル軍兵士たちの告白」「インド・パキスタン独立紛争~世界の火薬庫が生まれた日~」「ベトナム戦争 フィルムの若者たちを探して」「アフガン帰還兵の20年~ウクライナ ある盲目弁護士の闘い~」ETV特集「武器ではなく命の水を~医師・中村哲とアフガニスタン~」「中村哲の声がきこえる」(以上、NHK)など。医師の中村哲さんの活動を21年間、記録し、第58回ギャラクシー賞テレビ部門特別賞、ATP総務大臣賞を受賞。2022年劇場公開の映画「荒野に希望の灯をともす~医師・中村哲現地活動35年の軌跡~」を監督・撮影。

仲宇佐 ゆり フリーライター

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なかうさ ゆり / Yuri Nakausa

週刊誌のカルチャーページの編集・執筆を経て、美術展、ラジオ、本などについて取材、執筆。全国の美術館と温泉をめぐり歩いている。

 

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