敗戦に向かい合った日本人の精細描写に見える事 山田風太郎「戦中派不戦日記」の観察眼に学べ
加藤:なるほど。ただ『砕かれた神』ですと、天皇は「小さな男」などと表現され、かなり相対化されたうえでの描写となっていましたが……
奥泉:『砕かれた神』では、皇国少年だった渡辺清が戦後、反転して、徹底した反天皇主義者となった経緯が書かれるわけで、『海の城』で描かれる少年兵の時点では生粋の天皇主義者なんですよね。
加藤:そうでした。日記の引用もあって、ぐいっと引き込まれます。
奥泉:入隊前の日記の引用があります。宮城に向かってこのように言上します。「私ハ愈々明日帝国海軍ノ一員トシテ皇国ノ海ノ守リニ就キマス。コノ上ハ醜(しこ)の御楯(みたて)トシテ粉骨砕身、尽忠報告ノ誠ヲ尽ス覚悟デアリマス。モトヨリ私ノ体ハ陛下ヨリオ借リシタモノ、何時ノ日カ戦場ニテ必ラズ御返シ申シ上ゲマス」。
ここではまったくの皇国少年で、天皇の恩に報いるために一命を投げ出して頑張るんだと決意を固めている。実際には、入隊して艦隊に勤務してみると、凄惨ないじめがあったりして、このときのような熱はないと述懐するんだけれど、とはいえ「なにごとも天皇のため……。それはいわばおれの初心だ。痴(こけ)の一念だ」というふうには言うわけですね。
「おれはそこに全身の重みかけ、命を賭けている」。なにごとも天皇のため、というときの天皇は、先ほど引用したとおり、天皇個人を言っているのではない。自分にとって大切な、無条件に愛すべき共同体の換喩なんです。
個人と国家が直接にぎしぎし擦れ合っている
奥泉:ところが山田風太郎にはこれがないんですよ。「全身の重みかけ、命を賭けて」守り戦うべきものがない。愛すべき家族や故郷がない。そこが最大の特徴です。たぶん渡辺清みたいな人のほうが当時の日本では平均的です。対外戦争の進展のなかで、「天皇」は、村祭りとか、懐かしい山や川とか、そうした内実をともなった家郷のイメージをまとって現れてくる。
そうしたナショナリズムのなかに人々はある。しかし山田風太郎にはそれがない。彼にとって守り愛すべき「日本」や「天皇」は抽象的なんです。同時に彼は非常に怜悧なので、合理性を欠いた神がかり的言説には批判的たらざるをえない。「科学じゃない」という言い方を何度もしている。