「もちつもたれつ」で生きのびてきた「神仏習合」 「2つの原理」で此岸と彼岸を行ったり来たり

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山村に越してくる当時、ぼくたちは心身ともに疲れ切っていました。そこにはあらゆるものを数値化し序列化することで下位のものは価値がないと見なされる、都市の資本主義的原理が影響していました。でも、そもそも数値化しにくいものの価値はどうやって測るのだろう。この疑問に向き合う時間もないほど、現代社会のスピードは今もなお加速しています。回し車を走り続けるハムスターのようなぼくたちを止めてくれたのが、この史跡に象徴される「連続性」だったのです。『手づくりのアジール』では有限性という言葉で表しています。

そもそも、ぼくたちはどのような環境に生きているのでしょうか。というか、何をどこまで環境に含めるのでしょう。ぼくの「環境」は、山村に移り住んだことで大きく変化しました。山村は人間が生活するために、自然を制圧してつくられた場所ではありません。山の中に間借りしているような感覚です。人間だけではなく、犬、猫といった「家族」に近いもの、家の中に侵入してくるカマドウマやテナガグモ、カメムシ。天井を走り回るネズミ(おそらく)。庭先に現れるサワガニやカエル、トカゲ。家々を飛び回るヤマガラ。刈っても生えてくる草花をはじめ、台風で落ちてくる大きな枝、枯木など。これらすべてを含んだものが「環境」です。そしてこれらはいつか死にます。無限の可能性を内包する都市とは異なり、山村で暮らすということは「死」という有限性を意識することなのです。(『手づくりのアジール』169-170頁)

世界の安定をもたらす「2つの原理」

ぼくたちは史跡の前に住むという経験を通じて、無限の可能性に駆動される都市の原理とは異なる、有限性を基礎においた「もうひとつの原理」の存在を感じ取ることができました。都市は「ゆりかごから墓場まで」という言葉もあったように、基本的に生き物の生涯は直線的に語られます。それは人だけでなく、家族の一員としての犬や猫、鳥やイグアナなども同様です。さらに重要なことは、都市における生き物の生殺与奪権は人間が握っているということ。ゴキブリやクモ、ネズミなど人間が生存を許していない生き物に、都市における「居場所」はありません。

山村では多くの生き物が生まれては死んでいる状況が、目の前で毎日起こっています。もちろん1つひとつの死はかけがえのないものですが、生き物全体を「自然」と捉えたとき、その「自然」の中には数え切れない生死で溢れています。生き物の生涯が直線的ではなく、循環的だと言えるかもしれません。山村では生き物の存在は、人間によってどうこうできるものではありません。むしろ人間のほうがその「自然」の中に住まわせてもらっている。このように「もうひとつの原理」には、山村という「環境」が大きく影響していることにも気が付きました。しかしくどいようですが、都市の原理がダメで「もうひとつの原理」が優れていると言っているわけではありません。人類にとって原理が2つ存在することが、世界の安定をもたらしてきたのです。島薗さんは日本における神々についても、そのように述べています。

ここで、重要なのは、一方で天津神の頂点のアマテラスが鎮座する伊勢神宮に高い地位が与えられるとともに、国津神の代表である出雲大社にも高い地位が与えられ、記紀神話の中でも多くのスペースを割いて出雲神話が語られていることである。天津神と国津神というように日本の神は二つの系統に分かれ、天津神が国津神を抑えて国家をつくったとされる。伊勢神宮の系譜こそが日本の神道を支配したとされているが、それにしては、従属したはずの出雲大社をはじめとする国津神に大きな役割が与えられている。(『教養としての神道』118-9頁)
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