出井伸之が84年で形作った「華麗なる人脈」の凄み ソニー初の生え抜きサラリーマン社長が歩んだ人生

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出井氏は「入社後はカンパニー・エコノミストになりたかった」と話しているように、論理的に分析し将来を構想するのがこの頃から好きだったようだ。「お父さんみたいな研究者にはなりたくない」と子供の頃から反発していた出井氏だったが、研究者の資質を潜在的に持っていたと思われる。

一方、出井氏と言えば、国内外にわたる「華麗なる人脈」を有していることで知られている。大学生時代の就職活動で見せた大胆な行動に、優れた人脈構築力の片鱗が見られる。

出井氏がソニーの本社を訪れたのは1959年の夏休み。東京の品川と五反田の中間(御殿山)にあった社屋はまだ木造だった。人事部長が出てきた。一通りの面接を終えると、出井氏はこう切り出した。

「もうちょっと偉い人に会えませんか」

ビジネス・ネゴシエーション(交渉)の鉄則である「トップに会え」を大学生の身で実行したのだった。すると、意外にも人事部長は「どうぞ」と言って、2人の創業者、井深大社長と盛田昭夫副社長に会わせてくれた。出井氏は2人とも初対面ではあったが、井深氏の娘さんとは成城学園時代に同級生であったため、井深氏には親近感を持っていた。

小さなきっかけを「華麗なる人脈」形成につなげる。この手腕はビジネスを成功させるうえで必要不可欠である。実際、出井氏は小学校時代の同級生の縁をベースにして「もうちょっと偉い人」に会えたのだ。入社前から、井深氏と盛田氏との関係を築いた点では、大賀氏と共通している。大賀氏も東京藝術大学で音楽を専攻する大学生だった頃、足しげくソニーに通い、井深氏や盛田氏と交流していた。

出井氏は、井深氏と盛田氏を前にして、大学生ながらも、ヨーロッパ市場拡大で貢献したいと訴え、文系ながらソニーのトランジスタラジオとの出合いがきっかけとなり、その核を成すトランジスタに興味があることを強調した。すると、創業者2人の心の琴線に触れた。ソニーはアメリカ進出を果たしたので、次はヨーロッパを攻略したい。しかし、単なる語学屋さんではだめである、というニーズに合致したのである。

選考段階で突きつけた入社後の条件

出井氏は自己紹介と志望動機を述べるのに留まらず、堂々と条件を突き付けた。入社後に私費留学させてほしいと訴え、その要求を承諾してもらったのだった。入社前に自分の要望をこれほど強く主張できる大学生は、今の日本ではまれだろう。

出井氏は、入社2年目で2年間休職して、ジュネーブの国際・開発研究大学院へ留学した。1968年、東京、スイス・ツークを経てパリへ。代理店の一室を貸してもらい、ソニー・フランス設立の準備をたった1人で始めた。フランスでも出井氏は「華麗なる人脈」を形成する。「華麗なる人脈」は華麗なる人の紹介により拡がる。パリで「本当にお世話になった」(出井氏)のが、日本よりもアメリカやイギリスの映画で活躍したヨーコ・タニ(谷洋子さん)である。谷さんは、お父さんの友人のお嬢さんだった。谷さんの家でホームパーティーをしているとき、パリ大学在学中に谷さんを見出したマルセル・カルネ監督も紹介された。

盛田氏もニューヨークに住んでいた頃は、政財界、スポーツ、芸能界を問わず、さまざまなVIPを自宅に招いて頻繁にホームパーティーを開き、「華麗なる人脈」を形成した。その裏方で活躍したのが、夫人である良子さんである。OB世代の間では「ミセス」と呼ばれていたほど存在感は大きかった。盛田氏は老舗造り酒屋・盛田15代当主、良子さんは三省堂書店創業者の孫という「華麗なる出自」である。盛田夫妻が健在だった頃、ソニーはグローバルな上場企業でありながら、ファミリービジネス(同族企業)色が強かった。良子さんも目をかけていた社員を家族と見ていた節もある。

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