出井伸之が84年で形作った「華麗なる人脈」の凄み ソニー初の生え抜きサラリーマン社長が歩んだ人生

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幼稚園の頃に第二次世界大戦開戦を迎えた。そして、お父さんが、中国・大連の商工会議所で勤務することになり日本を離れる。終戦を迎えたのは7歳のときである。敗戦を知ると同時に、ソ連兵が侵攻してきた。家族ともども必死で逃げた。そして、やっとの思いで乗れた引き上げ船で帰国し、幸い焼失せずに残っていた東京・成城の家にたどり着く。まさに、戦場から遠方へ避難するという、今のウクライナ情勢さながらの過酷な体験をした。このときの体験は、国境を超え、世界を股にかけて活躍する出井氏を形成するうえで、重要な基礎となったと考えらえる。7歳ではあったが、まさに「三つ子の魂、百までも」である。

その後、成城学園小学校、中学校と進む。出井氏は亡き兄が残してくれたバイオリンを弾くようになり、中学1年のときに音楽部へ入部する。そこで、出会った先輩(3年生)が世界的指揮者となる小澤征爾氏だ。今やソニーと言えば、音楽が重要なセクターになっているが、そのトップになるにふさわしい貴重な出会いである。出井氏はソニーでオーディオ事業部長を務めるなど、音楽と関わる仕事に携わったこともあり、仕事面でも小澤氏との交流がより深まっていった。良き友とは、お互いの成長を促す人間関係を指すとすれば、小澤氏との関係は、出井氏を大きく育てるうえで上質な栄養源になったのではないだろうか。

成城学園で「お坊ちゃま育ち」を謳歌した出井氏は、バンカラ、自由の気風で知られる早稲田高等学院(早稲田大学付属の男子校)へ進学する。カルチャーショックを受けたものの、出井氏は過保護から解放され、自由闊達に羽ばたき始める。おしゃれでスマートな仕草ながら、硬骨漢の気質が感じられたのは、成城学園と早稲田の校風が融合したからではないか。

早稲田高等学院では、写真部に入部し3年生のときに部長を務めた。続いて進学した早稲田大学第一政経学部(現・政経学部)でも写真部に入る。そこで、大学を卒業して間もなく結婚することになる晃代(てるよ)さんと出会う。大学では写真部長就任を断り、勉強する時間を増やそうとした。大学時代の行動を見ていると、著書にあるとおり『ONとOFF』(新潮新書)を上手に自己管理できていたようだ。

出井氏は、高校時代からカメラだけではなくオーディオにも興味を持つようになり、スピーカーを自作したりするオーディオマニアであった。さらに、「フランスへ行きたくて、ソニーを選んだ」という出井氏は、早稲田高等学院時代に第二外国語としてフランス語を勉強していた。

当時の東京通信工業の入社動機になった経験

好きこそものの上手なれ、というが、カメラ、オーディオを通じて、映像と音に対する感性が磨かれ、フランス語を学んだ経験は、結果的に、音響機器に加えて、ビデオカメラやデジタルカメラ、その目に相当するイメージセンサーなど、映像分野で大きく成長するソニーで役立っている。フランス語運用能力はソニー・フランスの責任者へとつながる。

ソニー(当時・東京通信工業)への入社動機になったのも、早稲田大学時代に遭遇したある経験がもとになっている。早稲田高等学院に通っていたこともあり、高校生の頃から早慶戦に足を運び観戦するようになっていた。その時に、大きな真空管ラジオを持参して球場で試合中継に耳を傾けていたのだが、大学生の頃、小型軽量のトランジスタラジオと遭遇し、これを作っている見知らぬベンチャー企業・東京通信工業に興味を持つようになった。

その頃、お父さんが東洋経済新報社の研究所所長を務めていたこともあり、東京通信工業に詳しい記者を紹介してもらい、「東京通信工業はどんな会社でしょうか」と尋ねてみた。「いい技術を持っている会社だけれど、まだ小さい会社ですよ」と説明された。ここで、出井氏は就職できるチャンスありと見た。成長性が高いけれど、受けに来る人が少ない。それなら合格する確率も高くなると考えたのだ。まさに、競争戦略的思考である。

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