出井伸之が84年で形作った「華麗なる人脈」の凄み ソニー初の生え抜きサラリーマン社長が歩んだ人生

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

出井氏が技術軽視と見られたのは、ソニーらしい斬新なヒット商品が生まれなかったのが最大の要因だが、その印象をさらに強めることになったのはコーポレート・ガバナンス(企業統治)改革に積極的に取り組んだから、という皮肉な理由もある。

1997年、ソニーは監督と執行の機能を分ける、「執行役員」制度を日本で初めて導入する。翌年には、社外取締役を含む報酬委員会と人事委員会(現・指名委員会)を設置した。

アメリカ型企業統治については、経営学者の間でも賛否両論ある。出井氏はデジタル社会においては、より迅速な経営判断が執行段階で求められること、当時の商法において、監督と執行を同じ役員が行っていることに矛盾を感じていた。

この改革に関して筆者が会長だった大賀氏にインタビューした時、次のように発言した。

「サラリーマンにとって取締役という肩書は別格なんです。それなのに、取締役がとれ、執行役員なる名称になると、社内事情がわからない家族はがっかりするでしょう。とりわけ奥さんはショックを受けます。そこで、誤解を招かないように、ご主人の値打ちが下がるわけではない旨をつづった手紙を執行役員になられる取締役の奥さん方にお送りしました」

手紙を送る案は、出井氏が大賀氏にお願いして実現した。一見、欧米追随型、合理主義一点張りに見られていた出井氏の素顔には、浪花節的な一面も覗かれる。

出井氏がアメリカ型企業統治を志向するきっかけとなったのも、アメリカの「華麗なる(経営者)人脈」から受けた影響が大きい。その一例が、IBMのルイス・ガースナー元CEO(最高経営責任者)、ゼネラル・エレクトリック(GE)のジャック・ウェルチ元CEOなどだ。こうした「経営の神様」たちだけでなく、イタリア・ローマ在住の作家、塩野七生さんのような文人からも改革のヒントを得た。

技術軽視ではなく、むしろ、技術好きだった

コーポレート・ガバナンスをはじめ、技術以外の面で注目されがちだったが、出井氏自身は決して技術軽視ではなかった。むしろ、技術好きだった。その中でも半導体には並々ならぬ思い入れがあった。社長を務めていた2004年、業績が悪かったのにもかかわらず、将来、ソニーの稼ぎ頭の一つになると判断し、CCD(電荷結合素子)イメージセンサーを生産していた熊本工場を拡張し、CMOS(相補型金属酸化膜半導体)イメージセンサーも生産するため大型投資を行った。これが、2025年度に世界シェア60%(金額ベース)を目指すCMOSイメージセンサー事業の隆盛につながった。この蒔いた成功の種は、出井氏の功績としてあまり語られることはなく、華やかなパフォーマンスの陰に隠れている。

そもそも、出井氏が半導体好きになったのは、盛田氏の義弟で、大賀氏の前任社長を務めた岩間和夫氏(社長在任中の1982年に急逝)である。トランジスタラジオの開発で陣頭指揮を執り、CCDイメージセンサーを使ったビデオカメラも商品化した。出井氏がフランスに駐在していた時に、岩間氏が訪れたことがきっかけで交流が始まった。プライベートでもゴルフの師匠として、マナーに厳しい名門ゴルフクラブでゴルフ道を教えてくれた。

創業世代に覚えがめでたかった出井氏もほかのサラリーマンと同様、それなりに出世欲を持っていた。周りを見渡すと、文系出身者が集まる部署では、東大卒をはじめとする秀才たちがごろごろいる。文系部署では勝ち目はないと判断した。並みのサラリーマンであれば、これで昇進は頭打ちかな、と諦めるかもしれない。

だが、勝ち気で戦略家の出井氏は、「そうだ、技術者が多い部署の長になればいい。それも、技術系の人も行きたがらない業績が悪い事業部であれば、受け入れてもらえるだろう」と考えた。まさに、逆転の発想である。そこで目を付けたのが、不況下で赤字に悩んでいたオーディオ事業部だった。「オーディオ事業部長をやらせてください」と出井氏は手を挙げたところ、すんなりと事業部長就任となった。

次ページコンピュータ事業で味わった修羅場
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事