出井伸之が84年で形作った「華麗なる人脈」の凄み ソニー初の生え抜きサラリーマン社長が歩んだ人生

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オーディオ事業部長の技術者たちも腹の中では、お手並み拝見と思っていた。出井氏も、オーディオマニアで、バイオリンを弾いていた経験から音感が良くても、技術者との距離を縮めるのに苦労した。ところが状況は一変する。フィリップス社と共同で開発を進めていたコンパクトディスク(CD)が出現。出井氏をデジタルの道へ導くことになった。

CDプレーヤーを発売した1982年、大阪の家電量販店で盛田氏(当時・会長)と偶然に会う。店主は盛田氏に「なぜ、ソニーはコンピューターをやらないのですか」と尋ねた。盛田氏が即答しなかったのにもかかわらず、出井氏は「CDでデジタル技術を学んだので、すぐにでもコンピューターも商品化できます」と啖呵を切ってしまった。すると1週間後、盛田氏からコンピューター事業部長への転籍を命じられた。その結果、1983年に生まれたのが、電機各社が統一規格として打ち出した「MSX」ある。日本の電機業界が一丸となって開発し意気込んで発売したものの、販売は各社とも不調に終わった。8ビットにもかかわらず、現在のパソコンのような姿を夢見ていたが、ビジョン倒れに終わった。

ソニーはパソコン事業から撤退し、出井氏もコンピューター事業部長を解任された。また、しばらく仕事がない日々が続いた。修羅場である。だが、出井氏は、マイクロソフトの創業者・ビル・ゲイツ氏をはじめ、国内外の「華麗なる(コンピューター)人脈」とコンピューターに関する最新情報を手に入れることができた。この無形資産が、ソニーのデジタル化に大きく貢献することになる。

ここで、出井氏と盛田氏の共通点に気づく。2人とも良い意味で「ほら吹き」である。

「最近は、ホラを吹く経営者が少なくなった」と嘆いている日本電産の永守重信会長は、「ホラも結果を出せば、ホラでなくなる」と話している。その永守氏が「私も彼のホラには勝てない」と言わしめたのがソフトバンクグループCEOの孫正義氏。孫氏曰く「ホラを英語で何というかご存じですか。ビジョンと言うのです」。

盛田氏譲りの資質

出井氏もまず、ビジョンを打ち出し、すぐに行動に移すタイプである。この資質も盛田氏譲りと言えよう。

コンピューター事業部長を解任された出井氏は、1986年、レーザーディスク事業部長になる。この時も出井氏はスティーブン・スピルバーグ監督をはじめとする「華麗なる(ハリウッド)人脈」を拡げ、著作権など知的財産権の重要性について学んだ。さらに、ハリウッドの映画配給だけにとどまらず、放映権をテレビ局に売り、レーザーディスクにして売るなど、一粒で数回おいしさを味わえるビジネスモデルを知る。この知見が、今、ソニーグループが力を入れている一度モノを売って終わりにするのではなく、顧客との継続的な関係を築いたうえで安定的な収益を得るリカーリングビジネス(Recurring Business)へと発展していく。

1989年、ソニーはアメリカ映画大手のコロンビア・ピクチャーズ・エンターテインメント(SPE)を買収する。今となっては、ソニーグループの大きな収益源となっている映画部門だが、当初は、マネジメントに手を焼く。アメリカ人CEOが、全面的に任せたのをいいことに、放蕩三昧といっていいほど浪費した。盛田氏や大賀氏と親しい人物だったがゆえ、乱脈ぶりがわかっていても誰も口を出せなかった。

ところが、出井氏が社長に就任するや否や、この問題児を更迭した。そして、SPEを立て直すために、元ワーナー・ブラザースでプロデューサーだったジョン・キャリー氏を招聘し、厳しい経営管理を導入した。その後は、『スパイダーマン』などの大ヒット作も生みソニーグループに貢献するようになったのは現在の同社の業績を見れば明らかだ。

ただ当時は、出井氏の英断が、ソニーにおけるエンターテインメント部門の隆盛につながるとは、メディア、アナリストのほとんどが予想できなかった。

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