瀬戸内寂聴さんが1990年に綴っていた強烈な記憶 当時68歳「こんなに烈しく変革したときはなかった」

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今から32年ほど前の瀬戸内寂聴さんが直面したのがかつてないほどの世界の変革でした(写真は2003年、撮影:梅谷秀司)
昨年11月に逝去された作家の瀬戸内寂聴さん。1987年から2017年まで寂聴さんが編集長を務めた『寂庵だより』から、寂聴さんの随想を収録した書籍がシリーズで発売されました。寂聴さんの飾らない素顔が詰まった第3弾『捨てることから始まる 「寂庵だより」1997-1987年より』からエッセイストの酒井順子さんの解説を交えてお届けします。(漢数字や送り仮名などは原文の通りにしています)
<出家のきっかけの一つとして恋愛問題があったかもしれませんが、寂聴先生は源氏物語の女君達のように、出家した後に一人静かにお経を読んで過ごしたわけではありません。また中世の隠遁者のように、ただ世間を疎んだわけでもない。出家後はますます俗世と向き合うことによって、聖俗の間に橋をかけようとしていたのではないでしょうか。(中略)
サガノ・サンガと『寂庵だより』の誕生は、出家によって別の世界に入った寂聴先生にとっての、もう一つの転機となりました。年をとっても、人生は変えられること。そして年をとっても、他者のために生きられること。本書は、そんな寂聴先生の教えと実践を、我々に生き生きと伝え続けるのです。(解説「仏教と共に生きる寂聴先生と、人々とを結んだ『寂庵だより』」酒井順子 より)>

忘己利他

昭和四十八年(一九七三年)十一月得度した私の出離は、専ら自分の心の抜苦と安心を需めるためであった。他者のことなど思いやるゆとりは全くなかった。その後たちまちのうちに過ぎ去った十余年の歳月は、そんな私にも、大乗仏教の自行化他の根本精神を目ざめさせてくれたのだ。

二千五百年前の釈尊の出離は、生老病死という人生の苦の根源を見極め、衆生の抜苦与
楽の決定的方法を発見するためにあった。それを釈尊は個人のものとしてとらえず、人類すべての普遍的命題として認識しようとした。衆生済度という大悲願がそこに生れる。

釈尊は八十歳の死のまぎわまで老軀に鞭うち、諸国を行脚しつづけ、人々の苦悩と嘆きを聞き慰め、その抜苦の方法を、仏に帰依し、切に祈れと教え説かれたのだった。王城の栄華も肉親の恩愛の絆も、すべてを釈尊に捨てさせたものは何だったのか。それは他者の苦悩と不幸を見過すことの出来ない釈尊の、無限に深い愛にあった。

次ページ『山家学生式』に説かれた伝教大師最澄の言葉
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