瀬戸内寂聴さんが1990年に綴っていた強烈な記憶 当時68歳「こんなに烈しく変革したときはなかった」

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あれもこれも自分のはからいの他のことのような気がする。六十八年も生きてきて、自分が何処より来て何処へ去っていくのかさえ、今もって尚わからない。無限の宇宙の大きさの中では、微塵のようなはかない存在にすぎない人間の、何とまた短い生涯だろうか。

去年の秋は、プラハ、ブタペスト、ウィーン、パリと中欧の旅を廻ったが、まさかその旅から帰ってすぐ、中東欧に世紀的大変革が起ろうとは想像も出来なかった。

社会主義国のソビエトで、社会主義の敗北を認め、ゴルバチョフが大統領になるという大革命が起ったかと思うと、ベルリンの壁が破られ、東西両ドイツが、力を合せて統一した。世界はたしかにこの一年でめざましい大変改を遂げてしまった。人間が最後に求めるものは金でも地位でも権力でもない、自由だということを思い知らされた。

精神の貧困さが目立ち、不安を増す

イラクのクエート侵攻からはじまったアラブ諸国の湾岸危機が伝えられたのは今年の後半で、日本は自衛隊をアラブに派遣する、させないで世論が湧きたち、結局自民党が派遣案を放棄したが、それをさせたのは、二度と愛する者を戦地にやりたくないという女たちの願いと結束の力であった。

社会党に女の議員が大挙当選したこと以上に、戦後の女たちの意識の目ざめと、団結の力が示された頼もしい現象であった。

捨てることから始まる 「寂庵だより」1997‐1987年より (単行本)
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日本は世界一金持の国とか、最高の長寿国とかになっているものの、庶民の暮しは土地の急騰で家一軒持てないという有様だし、長寿に伴って起こる老人のボケは増える一方で、必ずしも長寿を手放しで喜んでばかりもいられない問題が起っている。

物質的に満たされて、かえって精神の貧困さが目立ち、不安を増すという社会現象を生んでいる。人間の煩悩は尽きることなく、そこにつけこんだ怪しい宗教が跳梁し、人は何が正しくて何が本物かを見分ける能力を次第に失ってきている。

イラクに捕えられていた人質がどうなることかと案じていたが、無事全員がクリスマスも待たず十二月七日に解放帰国を完了したことは、何よりも嬉しいニュースであった。

この件では政府がまたまた無能ぶりをさらしたが、猪木代議士の行動力の成果に理屈ぬきに拍手を送らずにはいられない。

(一九九〇年十二月 第四十七号)

瀬戸内 寂聴
せとうち じゃくちょう / Jakutyo Setouchi

1922年、徳島県生まれ。東京女子大学卒。1957年「女子大生・曲愛玲(チュイアイリン)」で新潮社同人雑誌賞受賞。61年『田村俊子』で田村俊子賞、63年『夏の終り』で女流文学賞を受賞。73年、岩手県平泉の中尊寺で得度。法名寂聴(旧名・晴美)。京都嵯峨野に「寂庵」を構える。92年『花に問え』で谷崎潤一郎賞、96年『白道』で芸術選奨、2001年『場所』で野間文芸賞を受賞。98年に『源氏物語』の現代語訳を完訳。2011年『風景』で泉鏡花文学賞を受賞。2006年文化勲章を受章。著書に『悔いなく生きよう』(祥伝社)など多数。2021年11月9日逝去。

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