瀬戸内寂聴さんが1990年に綴っていた強烈な記憶 当時68歳「こんなに烈しく変革したときはなかった」
「悪事を己に向へ、好事を他に与へ、己を忘れて他を利するは、慈悲の極なり」
と、『山家学生式』に説かれた伝教大師最澄の言葉も、釈尊の実践された利他行を受けついだものであった。
天台宗の尼僧として、得度を許された私が、十年余も大過なく沙門としての道を歩ませていただけたのは、自分の力など一切なく、ひとえにみ仏の加護と、無数の人々の愛の励ましのおかげであった。それと気づいた時、私はそれ等の恩に報いる方法を考えあぐねた。
持ち時間はもはや少いという焦りもあった。思い悩んで祈りつづけた果てに、門を開けという声が聞えた。それはガンに倒れた姉の死の前の言葉であったが、私には仏の声と聞えた。
私に迷いはなかった
ためらわず私はその声に従った。それは自分のプライバシーと時間を失うことであった。私に迷いはなかった。
人々を受けいれる空間としてまず四十畳の建物を建てた。破戒無慙の私に布施を他に仰ぐ資格はない。ペン一本で得たわずかな私財と、莫大な借金でそれをまかなった。
その建物をサガノ・サンガと名づけた。サンスクリットのサンガ(samgha)は和合衆と訳されている。同志といえばわかり易い。同志の教団もサンガと呼ぶ。その起源は釈尊がサルナートで初転法輪された時に、その説法を聞いた五人の比丘にあった。サンガに寄進された建物が伽藍であり、寺の原点となる。私は原点に立ち帰った寺を、手造りでつくりたかったのだ。サンガは志を同じくする者の出会いの場であり、修行と祈りの道場であり魂の憩いの場であった。それがサンガの存在原則となった。
開門して以来、またたく間に一年九ヶ月が流れ去った。その間、サンガには予想以上の人々が全国各地から、老若男女を問わず訪れてくれた。その数は日毎に増大している。