瀬戸内寂聴さんが1990年に綴っていた強烈な記憶 当時68歳「こんなに烈しく変革したときはなかった」
仏教的行事の一切は無料である。もちろん入場料などはなし。毎月一日の写経、十五日の坐禅、十八日の一日二回の法話の月例行事も定着し、昨年十一月の法話は千人近い人々が集り、三回話してもたりなかった。頼まれて結婚式も四組、在家得度は三人行った。巡礼は国内と中国と四回廻った。
サンガへ集ってくれる人々から、私は様々なことを教えられている。感謝の日々である。その報恩の一つとして、ここにかねて念願だった新聞を発行することにした。より強い同志的結合の絆とならんことを。熱い祈りをこめてここに第一信を送る。
(一九八七年二月 第一号)
逝く年に
文字通り、激動の一年であった。六十八年生きてきたが、世界じゅうがこんなに烈しく変革した時はかつてなかった。
物心ついた時から非常時ということばを聞き馴れて育っていたので、戦争が烈しくなり、戦勝祝いにわきたったり、出征する兵隊さんを、日の丸の旗を打ち振って見送ったり、女学校では授業中に千人針の布が廻ってきて、当然のように授業はおあずけで、みんなで赤い玉を縫いつけたり、護国神社へ戦勝の祈りに毎月参拝したり、戦争は日常だったので、非常時という言葉の緊張感はなかった。
神国日本がはじめて戦争に負け、現人神の天皇が我々と同じ人間に引き下げられたり、朝鮮も台湾も樺太も日本の地図から消されていっても、それほど心細い気もしなかった。
北京で敗戦を迎え、赤ん坊をかかえて、夫は現地召集でどこにいるかわからないという一ヶ月ほどの悲愴さも、二十三歳という若さと体力のせいか、その逆境を乗りきることへの必死の思案の方が強く、人が同情してくれるほどには、こたえていなかったように思う。
終戦後一年すぎての引揚げの苦労も夫と子供の三人づれなので、やはり恐れが少なかった。
引揚げてきて夜目に見えた広島の凄惨さに、初めて骨の芯から、日本は負けたのだという実感が体を貫いたように思った。
あれから半世紀近い歳月には、自分の身の上にも、思いもかけなかった様々な運命の変遷を見た。何といっても五十一歳の秋、出家得度したことは、自分の生涯の中で、結婚、出産、離婚につぐ大事件であった。