戦後日韓関係を舞台裏で支えた韓国知識人の独白 知日派知識人・崔書勉のオーラルヒストリー
金大中大統領を大事にした福田赳夫首相
――金大中(元大統領)と福田赳夫を会わせる機会をつくったと、あるところに出ていましたが。
崔 金大中君が国会議員になって初めて日本に来たとき、私は既に狸穴(編集者注:東京都港区)で韓国研究院をやっているときで、本当に久しぶりに私は国会議員になったことを喜んだし、彼は僕が無事に亡命して生きていることに対して喜びをお互いに交歓した。彼が、この机の4分の1ぐらいの箱を持って来て、「自分は国会で経済分科委員になったが、専売局が経済庁に入っているので、日本に来るといったら朝鮮人参をいっぱいくれた。私は東京に友達もいないし、あげる人はあなたしかいないので、あんたに全部渡す」と。私は、俄に大変な贈り物をいただいて、あのときは有効に使った記憶があります。
彼が何日か予定に従って行動した後、再び私のところに来まして、「私が日本に来たところで、誰か将来つきあうことによって韓国のために、私のためになる人はいないかね」と言うので、「福田赳夫さんだったらどうかね」と言ったら、「そんな人に会えるの?」というんです。「連絡してみる」と。それで福田赳夫先生に紹介したら、こいつが口が上手でしょう。べらべら喋って、あのときはあんまり反政府で固まっていない、生ぬるい時代ですから内容は激しくはなかったけれども、「韓国は38度線を守っているので、日本は韓国に援助をするのはあたりまえ中のあたりまえだ」と、こんな誰も言う話をまたするから福田先生が聞き飽きちゃって、「ああ、よくわかりました。ところであなた、いまは幾つ?」「39」とか何とか言ったら、「いやあ、お兄さん」と。突然お兄さんと呼ばれて金大中はびっくりして、「何がお兄さんです」と。私もびっくりしたら、「私は明治39年生まれだけれども、あれ以来年をとっていないから、お兄さん。39だから自分より1つ上だ」というので、「1つ上のお兄さん」と言って、金大中には非常に印象深く植えつけた会合でした。僕は、「おまえ、38度線はもうみんな聞き飽きているよ。あれはもう二度と言うな」と言ったら、「いや、私は韓国人として言うのはそれしかないじゃないか」というのが、最初の頃でした。
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