ウクライナでの戦争を歴史家が楽観視しない理由 「1979年の危機」が今世界に突きつける教訓
次の大惨事がどんな形を取るのかも、どこを襲うのかも、私たちには確かなことは言えない。
その惨事が疫病であろうが、戦争であろうが、何かその他の災難であろうが、始まってからわずか3週間では、どれほど大きくなり、どれほど長引くかは知りようがない。
また、どの社会が惨事に最も効果的な対応を見せるかも、予見することはできない。惨事が独創的な対応を引き出すこともある一方で、成功は自己満足を招きがちだ。
惨事に翻弄されるかどうかは私たち次第
1970年に、アメリカの作家ジョーゼフ・ヘラーの小説『キャッチ=22』の映画版が公開された。シナリオライターの1人のおかげで、映画には原作になかった次の台詞が加えられ、それが有名になった。
「被害妄想を持っているからといって、誰かにつけ狙われていないとはかぎらない〔訳注 原文は「Just because you’re paranoid doesn’t mean they aren’t after you.」で、「心配性の人の心配がすべて杞憂とはかぎらない」とでも意訳できる〕」。
私はこれが、本書『大惨事(カタストロフィ)の人類史』の核心を成すメッセージでもあると考えるようになった。
ありとあらゆる形と規模の惨事が私たちを本当につけ狙っている。惨事に対する最善の備えは、過去2年間に西側世界全体で新型コロナによってこれほど多くの命を犠牲にした種類の、官僚機構による見せかけの準備ではない。
また、惨事に襲われるたびに、特定の主義や党派に偏った見解を人々に押しつけても、何の役にも立たない。むしろ私たちは、ヘラーの作品に登場する第2次世界大戦中の爆撃機の搭乗員たちが感じていた類の共通の被害妄想をたくましくするよう、努めなければならない。
ただし、惨事への私たちの対応は、『キャッチ=22』の主人公ジョン・ヨッサリアンの諦観ではなく、その正反対のものであるべき点が異なる。
惨事は必ず起こる。だが、その避け難い運命にどれほど翻弄されるかは、私たち次第だ。それこそ、ウォロディミル・ゼレンスキーが私たちに思い知らせてくれたことなのだ。
(翻訳:柴田裕之)
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