お互いの愛情だけで結ばれるのが若い世代の恋愛結婚ならば、家と家の釣り合いをはじめとする条件重視で相手を選ぶのが旧来のお見合い結婚だ。現代の晩婚さん結婚はそのどちらとも違う。気持ちと条件の両方を大事にしたいのだ。
僕たち晩婚さんはぜいたくを言っているわけでも、妄想交じりの理想像を描いているわけでもない。しかし、社会人経験が長くなると「こういう人が好きだ、嫌いだ」という人物像は具体的かつ詳細になるし、共同生活をしていくうえで必要な能力や環境もわかってくる。ただし、その時点で同世代の異性はすでに結婚している人が多い。積極的に探さなければ、「また会いたい」と思えて「結婚生活も営めそう」な相手と出会うことは難しい。
「まるで親戚の人みたい」
婚活パーティにもそれぞれ参加していた明弘さんと紀子さん。テニス仲間の紹介で会ったのだが、実は初対面ではなかった。4年ほど前のテニス大会の際、あいさつぐらいは交わしていた。テニス仲間とその恋人、明弘さん、紀子さんの4人で「再会」を祝して食事をしたとき、紀子さんは明弘さんのことを「親戚か近所の人みたい」だと感じたという。紀子さんは明弘さんの実家がある市と県境を挟んだ自治体の出身であり、実家は同じく自営業である。
「2人とも地元にずっと住んでいるし、テニスとゴルフは共通の趣味です。わかりにくい言い方かもしれませんが、お付き合いして結婚するのも、右から左に移るような自然さでした。まったく知らない人と出会って結婚前提に付き合うとなると、横に移るのではなく飛び越える感じですよね。すごくエネルギーがいります」
結婚は生活と将来を他人と共有することなので、お互いの生育環境や学歴、職歴、趣味嗜好などは似ていたほうがうまくいきやすいと思う。性格は異なってもかまわないが、暮らし方や人間関係に関する価値観があまりに違うと齟齬をきたすことになる。
今、考えると当たり前のことなのだけど、かつての僕は「他人から見た面白さ、新奇さ」のほうを重視していた。最初の結婚では、生活観や家族観が合わない相手を選んだだけでなく、「口ではリベラルな男女平等論者だけど、結婚したら自分の姓にこだわる男たち」に当て付けをする意味も込めて妻の姓に変えた。しかし、新しい姓で名前を呼ばれるために元気がなくなってしまった。完全にアホである。
再婚した相手(現在の妻)は「結婚したら夫の姓になってもかまわない」という感覚を持った女性であり、同じく昭和的発想の大宮家との相性もよい。大学の同級生なので新奇さはないが、飲食好きの傾向も一致し、エンゲル係数の高い共働き生活を、今のところ穏やかに過ごしている。著名人や資産家の結婚ではないのだから、外形的な面白さやステータス上昇は不要なのだ。気の合う相手との平凡な生活の中でも、無数の発見や喜びはある。それを自分たちで勝手に楽しめばいい。
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