この「日に新た」という言葉は、松下幸之助が、よく使った言葉のひとつでもあり、色紙に書いたことがあるから、今も、どなたかがお持ちではないだろうか。この言葉は、仁慈の心をもって善政を行った、中国古代の殷王朝を開いたといわれる湯王(とうおう)が、自分の使用する洗面盤に、「苟(まこと)に日に新たに、日々に新たに、又た日に新たなり」(苟日新、日日新、又日新)《大学》という言葉を彫って、自戒としたという、その言葉である。
要は、日に新たという心掛けを実践していくことが大切で、ほんとうにそれを行えば、次々と自分が新しくなっていくというという意味。
日に新たを心掛けていた松下のエピソード
とにかく、若い時から、松下は、こういう思いを相当強く持っていたようだ。ひとつのエピソードが残っている。
事業をはじめてまもなくの頃か。松下が、特許をとった、ある製品をつくっている工場を見に行った。突然の松下の来訪に、その工場の主任は、驚きつつ、工場内を案内する。案内しながら、「いや、さすが親父さんですね、親父さんが考えはった、そのまま、今も造っております」と説明した。まあ、主任としては、松下に喜んでもらおうという思いもあったのではないかと思う。あるいは、松下を、よいしょしようという気持ちもあったかもしれない。
ところが、その一言を聞くと、松下の顔が急変した。そして、厳しい口調で、
「あんたは、なにをやっとるんや。それで主任か。いつまで、わしが考え造ったものと同じものを造っとるんや。あんたの工夫はどこにあるんや。この製品の、どこにあんたがあるんや」。
その叱責の激しさに、その主任は、真っ青になったというエピソードが残っている。
これは、松下の言葉だが、私の好きな言葉のひとつである。
今年は、去年のままであってはならない。
今日は、昨日のままであってはならない。
そして、明日は、今日のままであってはならない。
万物は、日に新た。
人の営みもまた、天地とともに、日に新たでなければならない。
憂きことの感慨はしばしにとどめ、
去りし日の喜びは、これをさらに大きな喜びに変えよう。
立ち止まってはならない。
今日の営みの上に明日の工夫を、明日の工夫の上に明後日の新たな思いを。
そんな新鮮な心を持ち続けたい。
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