中国が少数民族に抑圧的な政策を採る構造的要因 「中華民族」という共同体のゆがみと日本の課題

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中華人民共和国は、旧ソ連が建前上「さまざまな民族に自治権を付与した連邦制国家であった」のとは異なり、共産党が末端まで指導する厳格な中央集権体制をとる。なぜなら共産党は、抗日戦争を戦う中で、連邦制は「中華民族」を分断するとみなしたためである。

それでも個別の民族を公定したのは、スターリンにならってさまざまな民族の発展段階を規定し、その違いに応じて社会主義化を進めるためである。これを受けて少数民族が多い地域では、全国一律の政策に一定の猶予を加える「民族区域自治」を実施してきた。

したがって、共産党が個別の少数民族の社会主義化や「発展」をめぐる方針を変えるごとに、人々は翻弄されてきた。毛沢東時代には、中ソ冷戦や中印対立の中、内モンゴルとチベットで激しい弾圧が繰り返されて多くの人命が失われた。

胡耀邦政権が打ち出した少数民族への優遇

改革開放が本格化した1980年代の胡耀邦政権は、毛沢東への権力集中や、少数民族の実情を知らない漢族幹部の誤った指導が少数民族を圧迫したと考え、一転して少数民族への優遇を打ち出した。例えば、華語ではなく固有の言語で教育を行う民族学校が急速に整備されたほか、大学入試では少数民族への加点がなされ、貧困地域の少数民族が2~3人の子供を産むことも認められた。

しかしこれらの政策も第一義的には、生産力の発展のためである。日中国交正常化による大胆な経済協力の流れと少数民族政策の展開は、一見するとまったく異なる次元の話に見えて、根本ではつながっている。民族学校の整備や大学進学をめぐる優遇も、少数民族の共産党員や政府・企業幹部を増やし、上から「中華民族」の団結と「発展」を図るためであった。

したがって、胡耀邦政権の少数民族政策は、漢族と少数民族の関係を一新したとまでは言えない。そして1989年の六四天安門事件以後、中国のあり方を自由に論じ合う可能性は失われた。

一方、日本のODAも含めたインフラ投資や外資の導入が1990年代の中国経済に莫大な効果をもたらした中、江沢民政権はその方法を内陸部・少数民族地域にも振り向ける「西部大開発」を2000年以後進めた。以来、急激に流入する「内地」資本と人口(例えば新疆では2000年から2009年の間、漢族の人口が116万人増加した)に少数民族が従属する構図が強まった。

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