「看取り」の濃密な時間が子を成長させる 死の際にいる人と過ごす時間から何を得るか
尊厳死の法制化などもあり、近年、死や看取りについての関心は高まっているようです。先日も、看護師さん向けの講演で、「身近な人を失った人にどう接したらいいでしょうか」という質問を受けました。
身近な人の死は、大きなショックを与える出来事です。その結果、その人の人生が大きく損なわれてしまうこともあります。一方で、看取りの体験がその人の人生を大きく意味付けてくれることもある。そう考えると、死や看取りという問題は、あまり安易に図式化できない、ということがわかります。
「看取り」の特別な時間感覚
たとえばご自分の身内が病院のベッドで、いままさに死に直面しているとします。呼吸器をつけ、自力で動くこともできないし、意識もない(ということになっているけれど、家族としてはどこか意識が残っているようにも感じる場合も多いのです)とき、僕らはどう振る舞うべきなんでしょうか。
ここで一足飛びに尊厳死うんぬんの議論をするのは性急に過ぎる、というのが僕の考えです。死に瀕した家族に必要なことは何よりもまず、「死の際にいる人と過ごす時間」を大切にするということです。
例えば今、僕らにとって「10秒」というのは、こうして話している間にも過ぎ去ってしまう、なんでもない時間です。ところが、死に瀕した人や、その身近にいる人にとっては、その10秒の間に起きることが、人生のすべてといっていいぐらいの重みを持つことすらある。客観的な意味での時間の長短は問題ではないのです。
よく、交通事故に遭った人が、「はねられる瞬間、人生のすべてが走馬灯のように思い起こされた」ということを語ることがあります。僕自身も、5歳か6歳の頃、おぼれて死にかけたことがありましたが、水面に浮き上がるまでの、おそらくほんの数秒ぐらいの間に、ものすごくいろんな思いがよぎったことを覚えています。
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