今年の「ノーベル経済学賞」を解説する:上 ジャン・ティロール教授の理論はどこがすごいのか?
論文の中で、アメリカ国防総省が軍需品調達において、未達に終わった場合にはキャンセル料を供給者側に請求できる制度を認めるべきと主張していると指摘している。これは、政府と民間企業の間の契約では往々にして発生する問題である。
軍需産業では、政府と協同して情報交換を行ったうえで、特定の物資の調達契約を結ぶことが多い。しかしながら、研究開発に遅れが出たり、開発に想定以上の費用がかかったりして、当初の契約を順守できなくなり、政府に再交渉を求めることがある。その場合、かなりの投資がすでに行われていて、情報交換も行っているので、ほかの企業に発注するということは現実的に難しい。
そのような状況の下では、政府は企業の再交渉要求をのんで、支払い費用を引き上げるなり、納品期間を先延ばしするなどの条件をある程度、認めることになる。アメリカ国防総省はこのような再交渉要求をたびたびのまされてきた経験から、契約不履行の場合には高いキャンセル料を課すことを主張しているのである。
ティロール教授は、この点についても注意深く、必ずしもキャンセル料を課すことが調達費用を引き下げることにならないと論じている。すなわち、キャンセル料は、再分配効果はあっても、調達費用削減効果はないこと、そしてキャンセル料は企業の投資そのものを引き下げる効果があることを示している。
これらの洞察は、単に軍需品調達への適用に限られたものではない。多くの公共事業、たとえばダム建設やリニア中央新幹線の路線建設、東京オリンピック会場建設、福島第一原子力発電所の廃炉事業などに適用可能である。この種の不確実性を伴う契約においては、ティロール教授の分析が極めて示唆的なのである。
「現実」を直視した経済学を構築
ティロール教授の業績の一端を理解していただけただろうか。彼の経済問題へのアプローチは、企業間競争であれ、個人のインセンティブの問題であれ、必ず、費用と便益のトレードオフ、さまざまな制約を十分に考慮したうえで、最適な解を導くというものである。
これは、フランスのエンジニア・エコノミストの伝統を継ぐものであり、そこに彼の理論家としての真骨頂があると言える。このエンジニア・エコノミストの伝統はフランスのグランゼコールでも最古の国立土木学校の出身者(ティロール教授もその卒業生)の中から、経済学を専攻する人たちによって継承されている。彼らは官僚制度のトップや政治家、あるいは学者として活躍している。ティロール教授の研究を見ても、その政策議論は、実に行き届いており、将来、起こりうる事態を深く読み込んだものになっている。
個人的には、近年の世界各国で生じている政治・経済危機の多くは、官僚や政治家の質の低下、とりわけ、政策立案にあたって、細心の注意を払ったものになっていない、あるいは政策立案自体が、エビデンスベースの頑強な実証結果に基づくものではなく、政治家や官僚の根拠のない思い込みに基づくものになっていることから生じているのではないかと憂慮している。その点、ことティロール教授に関しては、思索の徹底ぶりに畏敬の念を抱かざるをえない。(下回へ続く)
唯一日本語に訳されているティロール教授の単著『国際金融危機の経済学』はこちら。
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