「私は、信長はとても正義感が強く、純粋で、潔癖な人だったように思います。信長は中国に領土を広げ、領地を息子たちに分配するという理想を宣教師たちに語っていたという記述が残っています。占いには頼らず、自分の力を信じていたのでしょう」(菅原さん)
信長の思想を受け継いだ豊臣秀吉も、占いとの関りを示す書物は残っていないという。
易占いを教える大学「足利学校」
中世の占いにおいて、大きな影響を与えたのが「足利学校」だ。戦国時代、日本でもっとも大きい大学だったという足利学校の創建には諸説あるようだが、易占いを学ぶ学校であったことは間違いない。
「そもそも『易経』は儒学の一部です。当時の学問は中国の四書五経です(四書は『論語』『大学』『中庸』『孟子』、五経は『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』)。易占いも学問の1つとして教えられていました。
先生は禅宗の僧侶。易占いが得意な僧侶が鎌倉に居て、その弟子が受け継いで足利学校で教えるようになったことがわかっています。江戸時代には毎年正月に将軍の運勢を易で占い(占筮)、その結果を将軍に届けていました。現在、足利学校遺蹟図書館には、その年筮の下書き38枚が遺されています」(菅原さん)
この足利学校の校長にあたる人を「庠主(しょうしゅ)」という。室町時代から江戸末期まで、23人の庠主がいた。
「第9世の庠主である三要は、徳川家康に仕え、活躍した人物です。元は豊臣秀次(秀吉の甥)に仕えていましたが、秀次が自刃したのちの慶長2年(1597年)10月に、京都の伏見で家康に『毛詩』(五経の1つ『詩経』のこと)の講義をしています。その後も三要は儒学者として家康に仕え、また出陣の日にちの吉凶も占っていました(『下毛野州学校由来記』)」(菅原さん)
家康はのちに周易(易経)のテキストを出版している。周易は政治を知るのに役立ち、その大切さを認識していたのだろう。
菅原さんは、中世における占いの役割は4つあると話す。
「第1に、中世では世の中で起きる現象は天の意思と結びついていると考えられており、占い師はその解釈を人々に伝える役目を担っていたと考えられます。第2に、戦乱・紛争が絶えず不安の多い時代、科学が未発達だった当時は異常現象などに理由付けをし、人々の不安を鎮める役割を果たしていたのでしょう。
第3に、占いは人々にそれまでの行動について反省する機会を与え、道徳的に啓蒙する役割があったはずです。そして第四に、迷いや悩みがある日常生活において、武将であっても神意に問うて、答えを見出すのが最善であったのでしょう。この4つ目は、現代にも通じるものがあります」(菅原さん)
戦国時代から約500年、人は変わらず迷い続けている。答えに窮したときは、戦国武将のように神意を問うてみる方法もある。
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