当時の占いの意味合いは、現在とは異なると菅原さんは指摘する。
「中世の時代は今よりもっと生死が身近にありました。そのため、占いをするのは切実な想いもあったのでしょう。また、政治の良しあしは天(自然現象)に現れると考えられていました。中世の陰陽道などの占いは学問の1つで、その思想は古代中国で生まれた陰陽・五行(木・火・土・金・水)がベースになっています。また儒学書の『中庸』には国家の興亡には必ずその前兆があると記されています。陰陽師は学問として学び、その道の博士でもあったわけです」(菅原さん)
戦国武将で占い好きというと、武田信玄の右にでるものはいない。戦では負け知らずだった、という信玄だが、占いにより勝ち続けたのかというとそうではない。
「武田信玄は重大なものごとを決断するときに、よく易占いを用いました。信玄は大変な勉強家で、中国の兵書を読み、儒学なども学びつくしています。その中の1つに『易経』があり、数学的要素のある『易経』を好んだのかもしれません。文武両道にすぐれた武将であり、戦術に長けていたのはそういった背景があるのでしょう」(菅原さん)
とはいえ、四聖人(おそらく『易経』の成立に関わった伏羲・文王・周公・孔子)の像を安置した建物を造り、つねに疑問におもったことを占っていたという。出兵が吉か凶かも占い、その結果によっては出兵を控えることもあった。
「信玄の軍師であった山本勘助は気象占いを行っており、甲府にある武田神社には現在も気象占いの巻物が伝えられています。勘助は片目が見えず手足も不自由だったことから体のほかの機能が鋭敏だったと考えられます」(菅原さん)
勘助のようなブレーンもまた、信玄の戦術には大いに生かされていたのだろう。
占いを軽蔑していた織田信長
一方、織田信長は占いにいっさい興味がなかったというのも興味深い。
「1569年6月1日付のキリスト教宣教師ルイス・フロイスの書簡によると、信長は『よき理解力と明晰な判断力を備え、神仏やあらゆる類の偶像、一切の異教的占いを軽蔑している』とあります。異教的とはルイス・フロイスから見て異教的という意味で、キリスト教的でないことを指します。
信長はキリスト教の宣教師を大切にし、仏教の僧侶に対してはよい感情を持っていなかったようです。お金儲けに走る一部の僧侶の世俗的な面を嫌っていたようです」(菅原さん)
無料会員登録はこちら
ログインはこちら