ミャンマーのクーデターで機能不全に陥るASEAN カンボジアとシンガポールが今後のカギを握るが……
ASEANは創立30年の1997年、ラオスとともにミャンマーを加入させた。
国軍は1990年にNLDが圧勝した総選挙の結果を無視して権力に居座り、アウンサンスーチー氏を自宅軟禁するなど、現在と変わらぬ独裁と人権無視を繰り返していた。それでも当時ASEANを仕切っていたインドネシアのスハルト大統領とマレーシアのマハティール首相が「加盟させれば自由市場や民主主義の価値を理解するだろう」と欧米の反対を押し切ってメンバーに引き入れた。
軍政内では開明派とされたキンニュン第1書記が交渉の窓口となり、市場開放も徐々に進めていたことから、東南アジアという市場全体を拡大する意図もあった。
ミャンマーが頭痛の種として存在
しかしマハティール氏らの思惑は外れ、ミャンマーはASEANに頭痛のタネをまき続けた。2003年には地方遊説中のアウンサンスーチー氏が暴徒集団に襲撃されたが、被害者である彼女を再び軟禁した。2007年には燃料価格の高騰をきっかけに民主化を求める大規模なデモ(サフラン革命)があったが、主体となった僧侶ら多数を殺害して鎮圧した。
こうした暴挙のたびに欧米諸国は国軍を厳しく批判し、経済制裁を科した。対応を迫られたASEANも特使を派遣したが、国軍の頑なな姿勢は変わらなかった。
2008年、地域機構の法的枠組みとしてASEAN憲章が制定され、民主主義の強化、法の支配、良き統治、人権重視などが理念と定められた。2012年には人権宣言も採択された。
一方、ミャンマーでは国軍の政治関与を永続化させる憲法が2008年に制定され、2011年に民政移管した。2015年、2020年の2度の総選挙で圧勝したNLD政権を武力で転覆させ、暴力で人権を蹂躙する国軍の支配はどこからみてもASEAN憲章の理念からはずれている。ところが国軍は同じ憲章が定めている内政不干渉の原則を盾に、総司令官の首脳会議出席を拒むASEANを批判している。
国軍にとってはASEAN主要国の出方は計算外だったとみられる。
クーデター後、時間が経てば国際社会の関心が薄れ、自らに都合の良い選挙制度をつくって傀儡政党に勝たせれば、状況を打開できると踏んでいた。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら