上京40年「初めて帰郷した男」を迎えた見知らぬ母 浅田次郎・最新長篇「母の待つ里」(1)全公開

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そうは言っても、同年配なのかもしれない。自分だって予定通りに定年を迎えていれば、あんなふうに閑(のど)かな老後を過ごしていることだろう。

車窓ごしに老人と犬を見送りながら、松永徹は苦笑した。もしや中学か高校で机を並べた、同級生ではないかと考えたのだった。むろん、そんなはずはないのだが。

小さな市街地を抜けると、刈入れをおえた田園が拡がった。乗る客も降りる客もない停留所をいくつも通り過ぎるうちに、風景はいよいよ茫洋として物語めいてきた。

故郷に錦を飾る、という成句がふと思いうかんだ。これがまともな帰省ならば、そういう話になるのだろう。

一国一城の主になるまでは帰ってくるなと親が言っただの、出世するまでは帰ってこないと自分自身に誓っただの。それにしても四十数年は度を越していようけれど。

そもそも松永徹には、野心のかけらもなかった。実にかけらもなかったのだから、会社員としては変人に属するのかもしれない。せめて家族がいればその気にもなっただろうに、相手の選り好みをしているうち四十になり、やがて恋愛そのものが面倒になって、五十を過ぎれば何を今さらとあきらめた。生来マメな性格で手先も器用だから、家事は苦になるどころか趣味に近かった。つまり「あきらめた」という言い方は、外れではないが中(あた)りとも言えない。

思いがけずに役員の椅子が回ってきた

独身男は能力や見識よりも、まず社会性を疑われるだろうと思っていた。ところが案外のことに人事は公平で、たいした手柄を立てたわけではないのに、閑かな老後を夢見る間もなく、まったく思いがけずに役員の椅子が回ってきた。

グループぐるみの架空取引や株価の内部操作などの不祥事が次々と露見して、少し上の団塊(だんかい)世代がごっそり辞任し、何となく押し出されるように昇格したのである。

業績の回復をなしとげた前任者から、社長の引き継ぎを打診されたときばかりは耳を疑った。相変わらず野心のかけらもなかったが、固辞する理由も見当たらなかった。

もしあえて掲げるなら、創業以来百二十年の間に独身の社長はいなかっただろうということなのだが、それも時流と思えば不自然ではなかった。むしろ年齢性別にかかわらず独身の社員が多い昨今では、好感をもって迎えられたふうがあった。

なだらかな丘を越えると、道路の際(きわ)に用水池とは思えぬ広さのみずうみが、空の青を映して横たわっていた。バスの影におののいて飛び立つ白鳥の群を目で追いながら、忘れ去ったふるさとに帰ってきたのだと松永徹は思った。

相川橋の停留所は、その名の通り二つの小川が合流する橋の袂(たもと)だった。駅からはかれこれ四十分を要した。どちらが本流とも言えぬ清らかなせせらぎが合わさって、山ぶところから里に出るところに、苔むした石橋がかかっていた。

病院帰りの老婆たちは、まだその先の住人であるらしい。今ごろは相川橋で降りた見知らぬ乗客の噂話に、花を咲かせているのだろう。

内陸と沿岸をつなぐ、昔ながらの街道である。わずかに並ぶ民家は宿場の名残りに見えた。しかしまるで死に絶えたように、人の気配は感じられなかった。

橋を渡ってきた軽トラックが、異邦人を怪しむように速度を緩(ゆる)め、停留所の雪囲いを少し行き過ぎて止まった。

「じゃじゃ、トオッちゃんではねがか」

声をかけられて振り向けば、真黒に陽灼けした農夫が運転席から身を乗り出していた。

答えにとまどって、「ああ、どうも」と愛想笑いを返した。かつて自分が、「トオッちゃん」と呼ばれていたのはたしかだった。

「あんやァ、やっぱす松永さんとごのトオッちゃんだ。なんもはァ、お久しぶり【おしゃすぶる】だなっす」

老人に見覚えはない。予期せぬ旧知の出現に胸が鳴った。この村ではきっと誰もが家族のようなものなのだろうと思えば、どう応じてよいやらわからなかった。

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