上京40年「初めて帰郷した男」を迎えた見知らぬ母 浅田次郎・最新長篇「母の待つ里」(1)全公開

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「バスに乗りおぐれた人(しと)だば、どごだり送ってってやるべかと思ったんだが、はァて、どごかで見た顔でねか。おめはん、ちっとも変わらねなあ」

「四十年ぶりですよ」と、松永徹は憮然として饒舌(じょうぜつ)を遮(さえぎ)った。ありがたいと思うよりも、むしろ鬱陶しく感じたのだった。

老人は松永徹の顔色を窺ってから、窓を閉めかけて言った。

「お母(が)さん、首さ長ぐして待ってるど。んだねえ、四十年も経つか。だば、トオッちゃん、家さ帰(けえ)る道さ忘れてねがか」

松永徹はあたりを見渡して答えた。

「あやしいもんです」

「んだろうなあ。なぐなった家(ええ)もあるし、そこらの木もずっと大(おっ)きくなっただじゃ。ええが、トオッちゃん。そごのお寺様の角ッこを上がっての、まっつぐ行(え)けァじきに柿の木も曲(ま)がり家(や)も見えるで、なんぼなだっておめはんも思い出すべや。だば、せいぜい親孝行すてくなんせ」

しまいには親不孝を詰(なじ)るように言い捨てて、軽トラックは去って行った。

街道の北には山が迫っており、緩やかな勾配(こうばい)に農家が点在していた。赤と黄と緑に彩られた、里山の風景である。

思い出すか。いや、やはり思い出せない。街道を少し戻ると、鄙(ひな)の村にはもったいないくらいの寺があった。曹洞宗慈恩院(じおんいん)という名も記憶にはない。

石垣が高く組まれているのは、洪水の際の避難場所だったのだろうか。そう思って南に目を向ければ、川の行手には堤防が築かれ、左右は一面の低い田圃(たんぼ)だった。

教えられた通りに、築地塀(ついじべい)の角を曲がって狭い坂道を登ると、お伽話(とぎばなし)のように赤い実をたわわにつけた柿の木が目に入った。その向こうにやはり物語めいた、茅葺(かやぶ)き屋根の曲がり家があった。

「きたが、きたが、けえってきたが」

何もかも忘れ去ってしまったけれど、松永徹が生まれ育った家であるらしい。

庭続きの小さな畑から母が立ち上がった。

「きたが、きたが、けえってきたが」

言葉の用意はなかった。松永徹は午後の光の中に佇(たたず)む老いた母をしばらく見つめてから、「ただいま」と唇だけで言った。

こんな人だったろうか。だが、四十年ぶりの帰郷を祝福してくれるのだから、人ちがいではあるまい。

まるで天から降り落ちてきたようなおふくろだと、松永徹は思った。

「道さ迷わねがったか」

「ちょうど通りすがった人に教えていただきました」

母は南に下る小径に手庇(てびさし)をかざして、

「何時のバスだかわがらねがったがら。迎えにも行がねで、お許(い)しえってくなんせ」

古ぼけた毛糸の帽子を脱いで、母はていねいに頭を下げた。小さな人が余計に小さくなった。泥まみれの軍手には、掘り出したばかりの大根が握られたままだった。

居ても立ってもいられず、かと言ってバス停で迎える気にもなれずに、街道を見おろす畑に出ていたのだろうか。

手にした大根を恥じるように抱えて母は言った。

「もうはァ、八十六にもなって体も思うように動かねがら、下の田畑(でんばだ)は若(わげ)え者の家(ええ)に借りてもらってる。死んだお父(ど)さんにはすまねえと思やんすが、ここでおらほで食うものだけ、大根(でえこ)だの芋ッこだの作(こしえ)てるのす。ままごとみてえなもんだ」

母の使う里言葉は、バスの中の老婆たちや家のありかを教えてくれた農夫のそれよりも、ずっとわかりやすかった。耳が慣れてきたのか、それとも母が気遣ってくれているのだろうか。

「さて、こんたなとごで立ち話も何だ、まんず、お入(へ)えりなんしェ」

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