日本人の胸打つ「忠臣蔵」討ち入り支えた禁断食材 元禄15年12月14日に赤穂浪士が吉良邸を襲撃

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犬公方と呼ばれた綱吉の統治下。綱吉の死後、すぐさま生類憐れみの令は廃止されたが、それでも日本人が一般的に牛肉を食べるようになったのは明治以降のことになる。仏教信仰の影響で、生類憐れみの令に関わりなく、江戸時代の日本人は肉食を好まなかった。むしろ穢らわしいとまでされていた。

その江戸時代にあって唯一、牛の屠畜と牛肉生産を認めていた藩がある。彦根藩だった。彦根藩主の井伊家では、太鼓の張り替えに毎年5枚の牛の生皮といっしょに、牛肉を幕府、将軍家に献上。御三家や老中などにも進呈している。

「薬」として扱われていた牛肉

別日、内蔵助が弥兵衛に送ったもう一通の書面にはこうある。

<可然方(しかるべきかた)より内々到来にまかせ進上いたし候。彦根之産黄牛(あめうし)の味噌漬養老品故其許(そこもと)には重畳かと存候。倅(せがれ)主税などにまいらせ候と、かへつてあしかるべし、大笑大笑>

「しかるべき方」とは誰のことを指すのか不明だが、彦根の牛の味噌漬けをよこすくらいだから、内蔵助にはそれなりの支援者がいたようだ。それを滋養強壮の食材として老齢の堀部弥兵衛に送っている。しかも、息子の主税のような若者には、かえって元気になりすぎて「悪しかるべし」と笑っている。

そこからもわかるように、江戸時代の牛肉は一般的な食用ではなく、「薬」として扱われていた。井伊家から将軍家へも「薬」として献上されていた。

やがて18世紀の後半になると、安永年間に麹町平河町に「山奥屋」という店があった。ここに通う武家たちは「紅葉」や「牡丹」という料理を食べていた。花札の絵柄の抱き合わせや語呂合わせから、鹿や猪のことを洒落や隠語でそう呼んでいたのだ。これを「薬喰(くすりぐい)」といった。身体によい薬なら致し方ない。そういう言い逃れで肉を食べていたのだ。

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