日本人の胸打つ「忠臣蔵」討ち入り支えた禁断食材 元禄15年12月14日に赤穂浪士が吉良邸を襲撃
生類憐みの令とはいっても、江戸前鮨や落語「目黒の秋刀魚」で知られるように、魚はその範疇になかった。鳥も食肉にあたらなかった。それに兎は例外とされ、毎年の元旦には将軍家から御三家、重臣に兎の吸い物が賜れていた。これは、徳川家の始祖とされる松平親氏の吉例による。
永享11(1439)年、親氏が父の有親と上野新田荘得川村から三河松平郷に移る途中、信濃の林光政のもとにかくまわれた。その日は大晦日。正月なのに何もないというわけにもいくまいと、光政が兎をとってきて元日に吸い物としてもてなした。すると、この年より武運が開けたというのだ。
徳川家康が天正18(1590)年8月1日に江戸城に入府した時にも、兎の吸い物で祝ったとされる。
牛肉を食べるのは人目をはばかること
また彦根藩では領内で牛を食べる習慣があった。その食べ方というのも独特だ。
まず行平鍋、もしくは帆立貝を用意する。そこに酒を張って煮立てる。沸騰してきたら、火をつけてアルコールを飛ばしてしまう。和食でいう「煮切り」だ。そこに牛肉と葱を入れ、醤油で味付ける。それだけで、すき焼きのように砂糖は入れない。あとは、握り飯を竹皮に包んで、いっしょに煮込みながら食べる。彦根藩では、そうやって牛肉を食べていたという。これを「じゅんじゅん」あるいは「ジフ」と呼んだ。
いまでも滋賀県の湖北地方や琵琶湖沿岸地域では、すき焼きのことを「じゅんじゅん」と呼ぶことがある。だが、割り下のあるすき焼き鍋が登場してくるのは、明治11~12年のことだ。
とはいえ、牛肉を食べるのは人目をはばかることだった。牛肉を食べるのは、武家の男子ばかり。それも庭園や土間、土蔵小屋、納屋、浴室で食べる。食器や鍋、焜炉も牛肉専用のものを使って、ほかの器と混同することはなかった。その専用容器も、使用後は箱に入れて、縁の下に置くなど、差し障りのないところに保管する。
牛肉に限らず、四つ足の肉を食べた日から、7日間は神仏の参拝や墓参りを避けた。雉肉を食べたときも3日間は神仏に近づくことを遠慮した。将軍家でも、鴨、雁は食しても、家畜として飼われる雉は食べなかった。神仏信仰の浸透した日本人にとって、獣肉を食べることは穢れであるという感覚は抜けきれない。
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