「資本主義終焉論者」に欠落している重要な視点 次なる社会システムは「生命の網」から生成する

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難しい言い方になりますが、社会と自然、あるいは資本主義と自然は動的な一元論で捉えないといけない。このように考えると、自然の有限性は資本主義の外側にある、かっちりとした限界ではなく、資本主義のあり方しだいで伸び縮みする可変的なものになる。この本が分厚いのは、いま言ったような二元論を批判し、それに代わる一元的な捉え方を哲学的に根拠づけようとする議論をしているからです。

なぜ一元論で考えなければいけないのか

斎藤:「一元論」で考えることの重要性は、具体的にどういう点にあるのでしょうか。

山下:2つの点から説明したいと思います。第1に、学問的な文脈でいうと、長らく歴史というのは、人間の主体的な営為を記すものだと考えられてきました。ところが実際の歴史をみると、人間の主体的な営為だけでは説明できないことが山ほどあります。人間も動物なので、当然環境に適応して生存を図る存在です。そして環境に適応するということは、環境に働きかけられてレスポンスすることですから、この場合、人間の側が客体なわけですよね。

人間が主体で、人間以外の存在は客体だというのが二元論の基本的な考え方ですが、実際はそんなきれいに分けられるものではない。人やモノの関わり合いの中で、人間が主体の場合もあれば、モノが主体の場合もある。そうすると、存在論的には人間も人間以外のモノも対等な関係、対称的な関係にあるわけなので分ける必要はありません。

だったら、歴史も二元論ではなく、一元論で考えるべきでしょう。二元論は近代の歴史学が持ち続けていた非常に強いバイアスですが、それを解除する必要があるわけです。

もう1つは、より実践的な話になります。現代の世界をこれからどういうふうに変えていくべきかという議論をするときに、さまざまな物事の決定プロセスの参加者を広げていくことが正義だということです。

近代の光の部分とは、結局のところ民主化だと思うんですね。自由を行使できる存在、物事の決定プロセスに参加できる存在が、最初は王侯貴族だけだったけものが平民に広がった。ただ平民と言っても、字が読める金持ちの白人男性だけでした。でもその範囲がさらに広がって、貧富の差を問わず、非白人、女性もそういった権利を手にしてきたわけです。

その広がりを、ホモ・サピエンスで止める理由はないわけなんですよね。歴史を作っている主体が人間に限定されないのであれば、なおのこと、人間で止める理由はありません。実際、現在は「動物の権利」ということも真剣に議論されているわけですから。

斎藤:人間以外の存在が、物事の決定プロセスに参加することはできるんですか。

山下:参加するということは声を聞かれることだと考えたらどうでしょうか。声を聞かれない存在は、アンペイドワーク、つまり私の訳し方だと「対価を支払われないはたらき」を引き受けさせられる立場になりやすい。それを引き受けさせること自体が不正義であり、世界の持続可能性を危うくします。そうしないためには、人間/非人間という二元論的な発想を解除して、あらゆるタイプの存在から声を聞くという態度を持つ必要があるのです。

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