下剋上は歴史が浅い日本社会では、構造的に起こりやすいものでしたし、当時の条件のもと、一挙に噴出したともいえます。「上」の存在感が希薄となったからです。武士も農民も商人も、当時の職能・身分の違いはさほどありません。まして中国との貿易によって庶民全般が豊かになり、経済的な格差も縮小していました。
東洋史学の草創者の内藤湖南は、ちょうど百年前の1921年、この動乱期を「日本全体の身代の入れ替わり」と表現しました。
「だいたい今日の日本を知るために日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要はほとんどありませぬ。応仁の乱以後の歴史を知っておったらそれでたくさんです。それ以前のことは外国の歴史と同じくらいにしか感ぜられませぬが、応仁の乱以後はわれわれの真の身体骨肉に直接触れた歴史であって、これを本当に知っておれば、それで日本歴史は十分だといっていいのであります」(『日本文化史研究』)
応仁の乱自体は、単なるお家騒動です。乱そのものの経緯をいくら掘り下げても、あまり意味があるとは思えません。ですがその前後において、列島に暮らす人々はライフスタイル自体が一変するプロセスを経験しました。そしてそれが近代・明治の「今日の日本」に続いているという史観は、やはり鉄案というべきものでしょう。
江戸期の安定を生んだ「社会の分業化・序列化」
下剋上の戦国をしめくくるのが天下を統一した織田信長・豊臣秀吉で、ともに下剋上の最たる存在です。かれらは兵農分離を実施し、職業による身分の差別化・明確化を図ります。渾然一体となってしまっている社会をきちんと分業化・序列化して、秩序を生み出そうとしたわけです。
さらに江戸時代になると、幕府は有名な「士農工商」という身分制度を設けました。戦国までのように身分がフラットな社会では、豊臣秀吉のように農民から天下をめざす人物が多数出てきてしまう。それでは治安が保たれず、政治が安定しないからです。
また下剋上が簡単に起きたからこそ、領国経営・地方政治は安定したともいえます。戦国時代の領主の中には、出自のよくわからない人物が少なくありません。つまり地元で頭角を現したボトムアップ型のリーダーであって、そういう人々だからこそ、地元住民に密着した政治が可能となりました。
もちろん身分は厳然として存在します。しかし世界史的な視野・基準で見ると、その差はごく小さいものにすぎません。
たとえば同時期の明代中国では、やはり民間や地方が急速に成長し、庶民文化が開花しました。その典型が「陽明学」の発展で、たとえば「万物一体の仁」という教えが登場し、エリートと庶民を「一体」とみなす考え方が流行します。身分制を設けようという同時代の日本とは、ベクトルがまったく逆でした。
しかし逆にいえば、こんなに「一体」を強調しなければならないほど、社会はバラバラだったのです。歴史の古い中国では、もともと身分・階級の大きな格差があって、それに比べれば、列島社会のフラットさは際立っています。
戦国日本の変貌したありようは、こうしてみるとよくわかります。この時期におこった社会構造の変化は、やはりそれをもたらした中国史・世界史的な「状況」との関連で考えるべきことなのです。
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