戦国期の高度成長を生んだ「倭寇的状況」の背景 応仁の乱以後、日本を変貌させた明の経済復興

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日本列島が中国大陸に銀を輸出するようになると、見返りに大陸から種々の商品・技術が入ってきます。それに刺戟されて列島各地の開発がすすみ、農業生産の増加と商業流通の発達をうながしました。

日本人も次第に贅沢に目覚め、いよいよ貿易を欲してきます。もはや「勘合貿易」だけでは賄い切れません。そこで明朝が認めていないはずの、民間による密貿易が横行します。

実は明朝の側も、それをある程度黙認しました。禁令どおりに取り締まったとしたら、たちまち経済が回らなくなることをわかっていたからです。もはや「密」貿易とは呼べないほど、その規模は大きくなっていきました。

ただし禁令無視をあまりに野放しすれば、政権の威信にかかわります。明朝政府は16世紀半ば、突如として密貿易に対する制限・弾圧に乗り出しました。南方では沿海の密貿易に従事していた貿易業者、つまり「倭寇」が槍玉にあがって、大きな騒擾が起こったのです。中国の内外を問わず貿易の関係者は、政府の弾圧にこぞって反抗します。明朝は結局それを抑え込むことができず、内憂外患を引き寄せることになりました。

沿海には貿易基地のような拠点が各所に生まれました。現存の都市でいえば、もともと「勘合貿易」の港・浙江省の寧波にくわえ、香港に近いマカオや、台湾の対岸の厦門などをあげることができます。国内と海外の業者がより多く集まり、かえって恒常的・積極的に取引が行われるようになって、ヨーロッパ人もそこに参入してきます。

ポルトガル・スペインのいわゆる「南蛮」渡来で、のちに「紅毛」、イギリス・オランダも加わります。こうしたありさまを現代の研究では、「倭寇的状況」と表現しています。「倭寇」とは一過的な事件でなく「状況」という常態だったとの意味です。

「倭寇的状況」で変貌する日本

16世紀ごろの日本は、このような「倭寇的状況」から多大な影響を受けました。すでに以前から地方が経済的に自立し、それぞれ力を持ち始めていましたが、その動きは海外の経済成長や社会変動によって、著しく加速したのです。

当時の社会の変化は、二つに大別できます。一つは、庶民が軒並み豊かになったこと。生産の増大はもとより、商業の発達にくわえ、海外からもたらされた技術や文化がそれを可能にしました。もう一つは、山間から低地へ人々が移ったこと。河口附近の沖積平野に治水を施して、低湿地を干拓して耕地に変え、稲作を拡大してより多くの人を養うことができるようになりました。

新田開発や住居建設のような土木工事をすすめるには、新しい技術はもとより、多くの人手とともに多くの資材や道具が必要になります。そうした動員・調達や加工のために商人や職人・人夫も集まってくると、衣食住をはじめとする生活インフラの整備も欠かせません。かくて沖積平野に都市ができ、やがて大坂や江戸のような大都市に発展していくわけです。

同じ時期、支配体制の再編成が始まるのも、おそらく根柢ではつながっていた出来事でしょう。それが応仁の乱に続く戦国時代の下剋上です。

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