有名人も貧しい人も同様に診察 「六本木の赤ひげ」アクショーノフさんを悼む⑤

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シラク氏は主要国の首脳の中で屈指の日本通として知られ、数十回来日している。1994年の秋、来日したシラク氏(当時はパリ市長)は右腕がひどく腫れて、握手もままならない状態だった。その日の夜に皇室主催の晩餐会に招かれていたので、なんとか夕方までには治したかった。

アクショーノフさんの自宅にホテル・オークラから往診依頼の電話がかかってきたのは午前5時ごろだった。急いで身づくろいをすると、タクシーを呼び、ホテルへ直行した。シラク氏は右腕を見せ、「今晩の晩餐会までになんとか腫れを治してほしい」と頼み込んだ。アクショーノフさんは右腕を一目見て、痛風だと判断した。長年のカンで、瞬間的に病名が浮かんだのだ。

ところが、通訳から病名を聞いてシラク氏はびっくりした。というのも、フランスにいるときから右腕がはれていたのでパリの医者に診てもらったところ、関節炎と診断されていたからだ。日本とフランスで医者の診断が違うとは夢にも思わなかった。

シラク氏は半信半疑だったが、時間が迫っていたので指示に従ってステロイド系の薬剤を注射してもらうと、あんなに腫れていた右腕が夕方までに治ってしまった。それ以来、シラク氏はアクショーノフさんを絶対的に信頼し、来日した時、体調が悪くなると、このクリニックに診察依頼をした。

1995年、シラク氏は晴れて大統領に就任した。翌年、大統領として初来日したとき、東京のフランス大使館で歓迎晩餐会が開かれた。アクショーノフさんも晩餐会に招かれ、その会場で大使夫人から「大統領のゲストはあなただけです。その他は大使のゲストです」といわれ、真ん中の席に座らせてもらった。

担ぎこまれてきたミャンマー人青年

東南アジアからやってきた茶髪の青年が同僚3人に担がれ、このクリニックに運びこまれたのは2001年11月のことだった。青年は高熱のためブルブル震えていて、アクショーノフさんが症状を聞いても要領を得なかった。この青年が、ミャンマー人のアウン・ミオ・ティントさん(当時26歳)だった。彼は六本木のレストランで働いていたのだ。

アクショーノフさんが熱を測ると、39度もあった。あまりの高熱に最初、「エイズではないか」と疑った。検査したところ、陰性だった。「では結核だ」と思い、抗生物質を投与するなど、できる限りの治療をしたが、結核は結核でも、普通の結核ではなさそうだった。

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