お金持ちからはしっかりもらうが、貧しい人からはお金を取らない。しかも、6カ国語を駆使して日本にやってきた外国人の悩みを聞いて病気を治す。こんなスーパーマンのような医師で「六本木の赤ひげ」と呼ばれたエフゲーニー・アクショーノフさんが8月5日、この世を去った。死因は心不全だった。享年90歳。
ロシア革命を逃れて旧満州(中国東北部)に渡った白系ロシア人の家庭に生まれ、縁あって太平洋戦争の最中に来日。苦学して日本の医師国家試験に合格し、東京の繁華街・六本木で60年間も開業医を続けた。医師としてのネットワークや交友関係は世界中に広がり、在日外国人はもちろん、日本に来るVIP、スーパー・スターからも頼りにされた存在だった。
アクショーノフさんを20年近く取材してきた筆者が異邦人医師の数奇な運命とユニークな生き方を紹介し、現代人の参考にしていただけたらと願う。
ロシア革命で一家は一文なしに
アクショーノフさんは1924年3月5日、旧満州の中心都市・ハルビンで生まれた。家は代々、シベリアに金山を五つ所有する裕福な資本家だった。だが、1917年のロシア革命により帝政ロシアが崩壊、社会主義政権になって所有権は国に移り、アクショーノフ家は一文なしになってしまった。
父ニコライさんは白軍の将校として革命の指導者レーニンが率いる赤軍とシベリアで戦った。いったん赤軍に捕まったが、危ういところを友人に助けられ、ハルビンに亡命、馬の牧場を経営していた。母ニーナさんも父の後を追ってハルビンにやって来ていた。
当時日本は日露戦争で勝ち取った関東州と東清鉄道の保護を目的として旧満州に関東軍を駐留させていたが、この部隊が肥大化して独走し1932年、満州国を建国した。十年後の1942年夏、日本から華族の一行が満州国の視察にやってきた。この中に、弘前十万石藩主の家督を継ぐ津軽義孝伯爵(旧男爵徳川義恕の次男で、伯爵津軽家の養子)が加わっていた。津軽伯爵は、後の常陸宮華子妃殿下の父親である。
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