信頼される男・武田信玄の居城が小さかった理由 「人は石垣、人は城」を実践した賢将
“森”を見すぎれば、“木”に注意がいかないこともある。“木”を農民にたとえるなら、一本一本の木々の力が“森”を活性化させる。このことを信玄は知り抜いていた。
堤防も人も、“すぐに”ではなく“いずれ”
信玄には“信玄袋” “信玄餅”など、その名にまつわるものが少なくない。新田開発のためにつくられた堤防、“信玄堤”もやはりそうだ。
かつて税は力、すなわち労働力だった。“税”の文字にはチカラという意味がある。
このチカラ(労働力地代)とカネ(貨幣地代)の間に位置するのがモノ(生産物地代)で税をまかなった時代だ。
人間の歴史を税の変化から言えば、チカラ→モノ→カネという形で移った。古代→中世→近代がこれに対応する。そして、このモノ(生産物、年貢)を税とした封建社会が、信玄の時代だった。要は農業がすべての基本となる社会だ。富国強兵の基盤だったのである。
「水を治めるモノは天下を制す」とは中国のことわざだが、時は移り、所は変わっても同じことが言える。信玄の卓越さは、この「治水」を領国統治の基本にすえたことだった。
甲斐盆地には、釜無川、笛吹川をはじめ大きな川が流れ、氾濫による被害が重なっていた。そのたびに対症療法がとられたものの、洪水には無策だった。農業経営の不安定さが、領国の経済基盤を弱いものにしていたわけで、これへの取り組みが課題となっていた。
目先のことへの対応はできても、100年先の大計は現実のものとはならない。膨大な費用と大量の民衆、金と力を使い続けなければ達成できない事業だった。信玄堤と呼ばれる堤防の実現は、それだけの難事業だった。
「甲州流川除け」とされた技術で、竹・松・柳を植えて根固めをし、亀甲出しを設けるなどの築堤術が駆使されていた。
この苦心が実り、領国内での農業生産は安定する。信玄の西上への夢は、この治水の成果で現実のものとなった。
余った資金を使っての設備投資は誰もが考えつくことだ。現代のわれわれだって、会社の運転資金が厳しい状況では、その優先順位があるのが普通だ。だが、“普通”では生き残れないことを信玄は教えてくれる。
組織の飛躍のために先を読んだ施策が何であるかを考えた上での発想が、信玄堤だったことになる。
苦しいときに何を優先させるか。これは組織の長たる者の経営センスに属する。
信玄の場合、目的(農業経営の安定→信用)と手段(治水→築堤)との間に速効性を考えなかったことだった。“すぐに”ではなく“いずれ”という大輪の咲かせ方を用いたのだった。
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