信頼される男・武田信玄の居城が小さかった理由 「人は石垣、人は城」を実践した賢将
これは経営者にもあてはまる。公私を混同し、社員の福利厚生と称して御殿のような屋敷を建てる輩もいる。だが、それでは社員に愛社精神は芽生えない。社員を城という会社に同化させ、アイデンティティを醸し出す算段こそが問われる。
では信玄は、この人間第一主義をどう展開したのか。
目先の利にとらわれない生き方
その前に簡単に、その生涯を振り返っておこう。
信玄は大永元(1521)年に甲斐守護武田信虎の長男として誕生した。北条早雲がこの2年前に死去している。また毛利元就が家督を継いだ時期に近い。信長の誕生はこの十数年後だった。
幼名勝千代、天文5(1536)年に元服して晴信と称した。天文10年に父を駿河の今川氏に追放し、家督を継ぐことに成功する。
以降、信濃各地に転戦、雄族村上義清を越後へと走らせた。これを受けた上杉勢が南下、その後の信州川中島の戦いへとつながる。
さらに相模や駿河へも兵を進め、元亀3(1572)年には大軍を西上させ、上洛をくわだてた。三河そして遠江へと進んだ信玄は、三方ケ原の戦いで家康軍を撃破、長篠城へと進撃するが、途中の信州伊那で天正元(1573)年死去する。53歳のことだった。
50年あまりの彼の生涯は、他の戦国武将と同じく東奔西走の日々だったが、注目すべきは、すぐれた人材活用術に加えて、“富国”のための政策だった。
言うまでもなく、大名たちが戦いに勝つためには、農民支配がいちばんの基礎である。安定した領国経営を前提にした総力戦だった。そのために、特色ある領国経営が問われた。
信玄に関して言えば、年貢(税金)を取るという目先の目的に終始しなかった。奪うことのみでは利益は生まれない。奪う前に、まずは与えること、この発想こそが信玄だった。
与えることは回収を予測してのことだが、目先の利にとらわれすぎればその大局を忘れ、与えることの意味さえ定かでなくなる。
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