北陸代理戦争の仁義なき場外戦 実録が現実を喰う! 『映画の奈落』を読む
第一稿から決定稿に至る推敲作業の軌跡からは、高田の意地が垣間見える。『仁義なき戦い』を始めとするそれまでの東映実録映画では、大きな流れそのものを主役に見立てることが多かった。だが高田は「一人の個人を主役に共感をもって書く」ということに勝機を見出し、それまで描かれることの少なかった「やくざ社会の女」に筆先を向けてゆく。
血と水の相克
これは、その後の東映映画の歴史から振り返ると、実に慧眼であった。『鬼龍院花子の生涯』や『極道の妻たち』を代表とする80年代には「東映女性やくざ映画」が全盛となり、そのプロトタイプとしての役割を演じていたことになる。『北陸代理戦争』は、1970年代の『仁義なき戦い』から80年代の『極道の妻たち』へと変貌するヤクザ映画の中間点に位置する、蝶番のような存在であったのだ。
その中でコマとコマの間に丁寧に張り巡らせていったのが、<血と水の相克>というテーマである。<血>とは親子、兄弟など血縁のある者同士の関係、<水>とは男と女ややくざ社会の兄弟分など、血縁のない者同士の結びつきを指す。ヒロインは自分の中の<血>と<水>のどちらが濃いかで懊悩し、抜き差しならない場面で、血よりも水のつながりを選びとるのである。
一方で、実際の川内組の歴史と決定稿との違いからは、何が事件の引き金を引いたのかという落とし穴が見えてくる。本来、「実録」とは事実に虚構が入り交じったものであり、特にモデルが実在のやくざである場合、さまざまな配慮をすることが必要不可欠であった。高田とて、取材した逸話を頭の中で「パッチワーク」し、自分のフィクションへ作り変えていったのである。
だからこそ、映画のラストシーンにおいて
という台詞も、以下のように和らげられはした。
だが、菅谷政雄を想起させる人物へ宣戦布告するというニュアンスは残されたままであった。それは高田の川内という素材への惚れこみが完全に裏目に出たことを意味する。モデルである川内と菅谷への配慮が足りなかったことによって、シナリオは予言の書となり、二人は「いま起こりつつある抗争」の真っ只中へと突っ込んでいってしまったのだ。
そして著者は、東映映画の伝統が育んできたものも、要因の一つになったと指摘する。
つまり、<血と水の相克>を描いた高田は、自らが<虚と実の相克>に直面し、見世物を作っていたはずが、結果的に自らも見世物になってしまったーーこの皮肉こそが、映画そのものを凌駕するもう一つのエンタテイメントになっており、本書の筆致によって川内と高田は再び奈落から這い上がることが出来たとも考えられる。
頂きの先には奈落があり、奈落の底には花道があった。「実録映画」と「実際の事件報道」と「ノンフィクション書籍」、現実を取り巻く3つのメディアを重ね合わせることによって見えてくるのは、人間の浮き沈みの「真実」とそれを見守る「観客」の存在である。
これをやくざという特殊な世界に起こった過去の出来事と思うなかれ。「見せて」「見せられ」が常態化した昨今。「炎上」という奈落も、そこからせり上がる「いいね!」の花道も隣り合わせに偏在化しているのが現代社会なのだ。
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