古舘伊知郎が「とくダネ!」終了を心底残念がる訳 小倉智昭は毒っ気が持ち味の最後の司会者
でも、自分に言い聞かせていました、「萎えるぐらいがちょうどいい」と。僕は血気盛んでおしゃべりで、ド頭からフリートークで悪態をつきたくなる性分なんですよ。
「このニュース、おかしいと思いますよ」って元気だと言っちゃうんです。自分の口の悪さは自分でよく知っています。でも、それはテレビ朝日としては大問題になって迷惑をかける。だから、萎えてやるぐらいがちょうどよかった。
「『報道ステーション』です、こんばんは。最初のニュースの国会の予算委員会、今日は衆議院で行われました。四の五の僕が言うよりも見ていただけますか」ってお行儀よく言えるわけですから。
それでも、当然傷つきました。だけど傷つくと、傷ついた部分が頑丈になるように、「これこそが仕事なんだな」と思えるようになりました。
「叩かれることが仕事」という考え
世の中に対して怒りを持っている人、何で俺の理想と、今の俺を取り巻く現実が違うんだと思っている人。さまざまな不条理を感じながら、毎朝6時半起きで、テレワークなど無理で、電車に揺られて仕事現場に行かなくちゃいけない人が多勢いる。
そんな人が家に帰って寝る前に『報道ステーション』を観て、僕や番組に怒りまくって電話してガス抜きをしてから寝たら、翌朝また元気に仕事に行ける。そういう人に向けて仕事をしているんだと、僕は思ったんです。もはや、叩かれることが仕事だと思えるようになった。
だから、小倉さんが病気している最中にネットニュースを見て誹謗中傷のあれこれを目にして、「もうそろそろかな」と思った気持ちはよくわかるんです。文句言われているうちが華だっていう気概のある人も、心も体も弱っているときは降板や引退がよぎる。
「僕も同じようだった。小倉さん」って言いたかったです。大病したわけではない僕が、同じようって言ったら失礼ですけど。それでも復帰してまだ頑張っていたんだから、「死ぬまで何でやらせてあげないの」という思いは強くあります。
感傷的なことは抜きにしてと言いながら感傷的になってしまいましたが、どうしてもそう思ってしまうんです。
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