「スフィンクス見物する侍」が背負った驚きの使命 幕末に海を渡った遣欧使節団の知られざる目的
この中には有名な福澤諭吉もおり、ピラミッドについての感想を残している。
ただ、このときの使節団がスフィンクスを前に撮った写真は、いまだ発見されていない。そういった意味では、この集合写真はまさに記念すべき一枚といえよう。
「交渉しているポーズ」のために海を渡った使節団
ではこの使節団の本来の目的は何だったのか――、それは横浜港の鎖港を列強諸国に認めてもらうことであった。
だが、当時すでに正式に通商条約を結び、多数の外国人が横浜などの居留地で活動をしていた。しかも交易量の9割が横浜。到底、理解を得られるとは思えない。
ただ、驚くべきは「それでかまわない」と幕府は考えていたのである。
国内では攘夷運動が空前の盛り上がりを見せ、将軍徳川家茂は朝廷の要求に屈し「攘夷決行」を諸藩に命じなくてはいけない窮地に陥った。
だからひとまず、朝廷の意に沿うよう遣外使節を送り、時間稼ぎを狙ったのだとされる。
ヨーロッパまでは片道3カ月近くかかる。しかも各国をまわって交渉していくわけだから、1年、2年は帰国しないはず。その間に情勢が変わることを期待したのだ。
この幕府の考えを積極的に支持したのは、当時将軍後見職として京都で大きな政治力を発揮していた将軍就任前の徳川慶喜だった。
越前の松平春嶽や薩摩の島津久光などは、使節の派遣や横浜鎖港に大反対したが、これを抑えたのが慶喜だった。このため薩摩藩は、幕府や慶喜に不信を抱き、やがて見限ることになる。
ちなみに、当の使節の長たちは、自分が捨て駒だと知っていた。それについては、次のような話がある。
のちに渋沢栄一ともフランスに渡った外国奉行支配組頭の田辺太一は、副使の河津伊豆守の部下だったが、横浜鎖港には反対だったので、自分がメンバー入りすると聞いて、固辞するためにただちに河津のもとに馳せ参じた。
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