「スフィンクス見物する侍」が背負った驚きの使命 幕末に海を渡った遣欧使節団の知られざる目的
すると河津は、田辺に対して「使節は、朝廷への口実たれば、固(もと)より已む得ざるものたり、その国辱たるやは或はこれあらんといへども、現在唯一の政策として、閣議既に定りたる上は、これを論ずるも詮(せん)なし」(『幕末外交談』富山房)と答えている。
悲しいかな、成果を期待されない時間稼ぎの外交使節──それが、文久3年の幕府遣欧使節団だったのだ。
屈辱的な約定を結び、わずか7カ月で帰国した理由
案の定、使節団の結果は惨憺たるものだった。
最初のフランスで交渉したところ、鎖港の話は一蹴され、逆に「巴里斯(パリス)約定」を結ばされ、フランス士官殺傷事件と長州藩の外国船砲撃事件の賠償金の支払い、特定品目の関税無税化などを約束させられたのである。
ちなみに使節団の面々は、短いパリ滞在でヨーロッパに対する見方が180度変わってしまった。
ガス灯で夜も明るいパリの町、壮大な劇場や工場、汽車や軍艦や気球。日本と隔絶した文明社会を目の当たりにして、鎖港は時代に逆行するものと理解した。
通説では、攘夷主義者だった正使の池田も開国派に転じ、「親幕府的なフランスでさえこのような態度だから、強硬なイギリスと交渉しても無駄だ」と判断して、勝手に帰国の途についたといわれている。
ただ、その後の池田の行動を見ると、この説については大いに疑問が残る。
なぜかについては、後に述べることとする。
いずれにせよ、このとき使節団はフランスでの交渉後、他国へは向かわずに日本へ引き返すことにしたのだ。
翌元治元年(1864)7月18日、使節団はイギリス船で横浜に到着した。池田らは直に京都へ行き、朝廷に攘夷の不可を直訴しようと考えたが、幕命で渡航したわけだから、まずは江戸で帰朝報告を行うのが筋だと思い直した。
ところが、仰天したのは幕府だった。
たった7カ月で使節が戻ってきてしまったうえ、攘夷の不可を朝廷に説くと息巻いているというではないか。
攘夷運動が過熱しているいま、そんなことをされたら大変なことになる。そこで江戸からは目付や外国奉行などが横浜に派遣され、「江戸行きは許さぬ。箱館へ行き、息を潜めておれ」と命じたのである。
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