「スフィンクス見物する侍」が背負った驚きの使命 幕末に海を渡った遣欧使節団の知られざる目的

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

これに焦れた池田は、なんと「将軍や老中に直訴する」と馬で走り出した。驚いた副使の河津と目付の河田が後を追いかけ、池田を落ちつかせようとしたが、すでにその面相は変わってしまっており、制止を振り切り江戸府内へ入ってしまった。

しかし河田は再び池田本人をどうにか捕まえ、老中宅へ行くと言うのを無理に押しとどめて、その日は断念させたのだった。

結局、池田の言い分は取り上げられず、蟄居のうえ知行の半分を召し上げとなり、さらに河津や河田などの使節の重役たちもみな処分された。

正使・池田長発が抱えた苦悩

また幕府は、使節が結んだ「巴里斯約定」についても、破棄を列強諸国に通告した。ところがこの幕府の対応が、歴史的な事件のトリガーとなった。

その事件とは、元治元年(1864)8月に、英・仏・米・蘭の連合艦隊が下関を攻撃・占拠した四国艦隊下関砲撃事件である。

長州藩は事件以前に下関を通過する外国船を砲撃しており、列国は幕府に賠償金の支払いや下関の自由航行を求めていた。それを約束したのが前出の「巴里斯約定」だったのだが、幕府がこの条約を破棄したことで列国は実力行使に出たのである。

ただし、列国の武力行使の方針は、すでに同年4月には決定されていた。
ここからは私の推測だが、おそらく池田ら使節団は、パリでの外交交渉中にフランス政府からその事実を知らされたのではないだろうか。

だからこそ池田は、戦いを避けるべく屈辱的な「巴里斯約定」を結び、戦争をとめようと急遽帰国したのだと思う(実際、同時期にイギリスに留学中だった伊藤博文と井上馨も、その事実を知って戦争をとめようと急ぎ帰国している)。

ところが、使節団が7月に横浜に戻ってみると、すでに港には大艦隊が集結していた。

「これはまずい」と驚いた池田は、すぐに朝廷を動かして長州藩の行動を抑え、幕府を通じて列国駐日公使らに「巴里斯約定」の履行を表明させ、艦隊の出発を中止させようとした――というところではないだろうか。

『絵画と写真で掘り起こす「オトナの日本史講座」』(書影をクリックすると、アマゾンのサイトにジャンプします)

後世「狂人」扱いされるところのある池田だが、帰国後の彼の切迫した行動を、私はそうとらえている。

しかし、このとき幕府は、禁門の変で敗北した長州藩の軍事討伐に動いており、外国艦
隊の長州攻撃は、幕府を苦しめてきた長州を懲らしめるよい機会だと判断していた。

だから使節団の帰国を隠そうとし、池田が勝手な行動をとると処罰して動きを封じたのだ。

結果、列強の連合艦隊に大敗して攘夷の不可を知った長州藩は、以後、朝廷を中心とする近代国家の成立を目指し、幕府を見限った薩摩藩と手を結んで倒幕へ動いていくことになる。

そういった意味では、時間稼ぎの遣欧使節団が、歴史を動かす引き金になったといえるのではないだろうか。

河合 敦 歴史研究家

著者をフォローすると、最新記事をメールでお知らせします。右上のボタンからフォローください。

かわい あつし / Atsushi Kawai

歴史作家、多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。1965年、東京都生まれ。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。歴史書籍の執筆・監修のほか講演やテレビ出演も精力的にこなし、わかりやすく記憶に残る解説で熱く支持されている。著書に『日本史は逆から学べ』(光文社知恵の森文庫)、『歴史の勝者にはウラがある』(PHP文庫)、 『禁断の江戸史』(扶桑社新書)などがある。

この著者の記事一覧はこちら
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

関連記事
トピックボードAD
ライフの人気記事